月にひとつの物語
『霜月』(紫草版)

 あれは少女が、まだ十一の秋のことだった。
 手渡された四角な箱には、小倉百人一首と書いてあった。ただ黙って受け取って、立ち尽くしていると母の言葉を聞いた。
「これで百人一首を覚えるといいわ。いつか必ず役に立つから」
 それだけ言うと、母は流し台に向き直る。

「ありがとうございます」
 少女は、母の背中に頭を下げた。
 それは少女が親から与えられた、初めての贈り物だった。

 少女は少しだけ大人びて、高校生になった。
 あの年、親から貰った百人一首は今も彼女の机の中にある。ただ、その箱を一度も開けることはなかった。
 何故なら、あの箱を誰が買ったのかを問われてしまったら、誰から貰ったのかを問われてしまったら、少女には口を噤むことはできない。家というものや祖父母の権力というものは、今よりもずっと強固だったから。
 見張られているように家を管理する祖母に、隠すということは不可能だった。
 だから、いつ見られるかと怯えるよりは隠してしまうことを選んだ。
 初めて貰ったものだったのに。新しい母が嫌いだという意思表示ではなかったのに。

 母とは所謂、継母と継子という関係だった。
 でも、祖父母が嫌うこの継母を少女は慕うわけにはいかなかった。
 少しずつ核家族が増え、祖父母の権力などという言葉には縁のない同級生もいたけれど、少女の家は代々続く旧家であった。最優先されるのは祖父母の言葉であり、家の行事であり、そして親戚との付き合いだった。

 跡取りとされる男児を産めなかった実母は物心がつくより前に離縁され、新しく継母がお嫁にきたのだという。その頃の記憶は微かなものでしかないが、繰り返される祖父母の言葉に自分とは血の繋がりがないことを知っていた。
 やがて少女が成長するにつれ、祖父母は養子を取る道を選び、すると今度は継母が邪魔になる。
 父は祖父母の言いなりだった。

 継母が遂にお払い箱という時になって、少女が病に倒れた。難しい手術を受けるということで入院する。
 しかし祖父母に寝ずの看病は務まらない。
 無給で仕える手伝いとして、継母は家に残ることを許された。
 その夜から少女と継母には、目に見えない何か強い繋がりができた。勿論、誰に言うわけにもいかない関係だったけれど。

 お蔭様で手術は成功し、家に帰ってからも心細いという理由から継母を近くに置いて眠った。
 祖父母の決めた跡取りである。少しくらいの我が儘なら、聞いてやるという態度を取られた。
 それでも良かった。少女にとっては、初めて家の中で人の温もりを感じた時間になったから。

 高校生になったその年に、祖父が他界し、継母が弟を産んだ――。
 少女は、自分の部屋といって宛がわれていた部屋を移ることとなった。最早、跡取りではないから。
 継母は弟の世話にかかり切りになり、少女に構っている暇がなくなったようだ。そして再び、少女は孤立した。

 とある日。それは弟が歩き出した頃、庭で遊んでいるところに遭遇した。
 声をかけると、彼は喜んで近寄ってくる。その時だった。石畳の角につまづいて、彼は転んでしまう。
 弟も驚いたが、少女はもっと驚いた。思わず駆け寄り抱き上げてやる。
 柔らかくて、暖かくて、軽くって、そして何よりも湧き上がる愛おしさは初めて知った感情だった。
 驚いたことと痛みで泣いていた弟も、少女の腕のなかでやがて静かになった。
 少女はそのまま弟を抱いて、庭を歩いた。
 暫くして祖母の声が聞こえ、振り返った時、怒ったような顔をした祖母が廊下に見えた。

 その祖母の形相に驚いたのだろうか。弟が突然泣き出した。
 どんなにあやそうと、もう少女には笑ってくれそうにない。
 祖母は、少女の腕から弟を奪い取り、捨て台詞を吐いて奥へと消えた。

『ちゃんと育つ男の子がいたら、女は要らん』

 もう生きていけないと思ったのは、どうしてだろう。
 よく考えたら、祖母の方がずっと長寿できっと少女より早く死ぬだろうに。この冬に向かう寒さを秘めた、空気のせいだろうか――。
 少女は部屋に戻り初めて、あの百人一首の箱を開けた。そして一枚一枚、ゆっくり札を詠んでゆく。
(百枚。全部詠み切ったら、家を出よう)

 百人一首の箱だけを持って、少女は玄関をくぐる。
 ちょうど奥の部屋から出てきた祖母と会ったが、何を聞かれることもなく視線を逸らされた。
 生きていけない、という言葉は重い。
 でも少女の足取りは軽かった。

 少し歩くと、門に出る。そこまで来て、知らない女の人が立っているのに気付いた。
「何か、御用でしょうか」
 その人は驚いたように少女の顔を見た。
「蘰(かづら)さん?」
 即座に肯定した。警戒するも何もない。間もなく死にゆく身だ。
 すると、その人は深々と頭を下げた。
(何…)
「私と一緒に来て下さい。お願い致します」
 その人は頭を下げたまま、言葉を繋ぐ。
「お母様から貴女を引き取って欲しいと連絡を戴きました。私は蘰さんを産んだ者です」
 その人の言葉を、顔色を失って聞いた。すると継母が家から飛び出してきて、
「蘰さん。死んではなりません」
 と叫ぶ。
(どうして死ぬこと、知ってるの…)
「この方と行きなさい。そして失ってしまった子供の時間を取り戻して下さい。もう家の犠牲になることはありません」
 継母は、早く行けと背を押した。その時、初めて少女の手にある百人一首に気付いた。
「私は、おかあさんが好きです。だから最期に持っていたかった」
 それを聞いた継母が、これから貴女はちゃんとした大人になって、幸せな自分の人生を送るのよと涙を流す。
 いつか、みんなで笑って再会することができると、継母はきつく蘰を抱き締めた。
 あの百人一首の札と共に。
【了】

著作:紫草

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