月にひとつの物語
『卯月』(李緒版)

 一通のエアメールが、届きました。
 日本に住む兄のフレッドからです。
 インターネットで世界がつながっているこの現代に、エアメール。相変わらず、日本は良い所だの、日本人は良い人ばかりだの、褒め言葉ばかりが続きます。
『来年高校を卒業したら、エイミーも一度おいで』
 チェリーブロッサムの花びらが散る薄紙の便せんを手に、私は大きなため息をつきました。
 窓からは、霧に霞むロンドンの街が広がっています。私は、ここから見る景色が好きでした。子どもの頃、夜のビッグベンを眺めながら、ピーターパンの話をしてくれたのは、8歳年上のフレッド兄さんでした。
 もう、5年も会っていません。働き蜂だという日本人に、兄も感化されてしまったのでしょうか。
『クリスマス休暇くらい帰ってくれば』とメールしたら、『日本にはそういった風習はないから』と、クリスマスカードにそう書いてありました。友人に聞いたら、ニューイヤー休暇はあるというではありませんか。それなのに、やっぱり帰って来ませんでした。大学進学のこととか、他にも色々相談したいこともあったのに。
 そんなにも兄をとりこにした日本という国が、私は好きではありませんでした。


 夏のバカンスは、郊外の屋敷へ行くことにしました。
 子どもの頃は毎年、祖父の住むこの屋敷で、バカンスのほとんどを過ごしていました。
 両親は、暖かい南仏の別荘へ行ったのですが、別行動を取るには、ここへ来るしかなかったからです。こういう時は、古い家柄が少し恨めしく思います。
 本当のことを言うと、祖父のいる屋敷へ行くのは気が重いのです。それでも両親と出掛けるよりましだったから、久し振りに訪れたのでした。
 屋敷に着いた翌日のこと、珍しいことに祖父が、私を自室へと呼びました。曾祖父から受け継いだという、骨董品に溢れた祖父の部屋が、私は嫌いでした。
 相変わらずこの部屋は、古い物の持つ特有の匂いに包まれています。曾祖父という人は、19世紀にフランスで開催された万国博覧会へ行ってから、すっかりジャポニズムにかぶれて、日本や中国のものをたくさん買い込んだ人なのだそうです。
 それらの品々を、祖父や兄は、とても大切にして愛していました。兄はずっとこの部屋に入り浸り、私の相手を少しもしてくれませんでした。だから、余計に嫌いだったのかもしれません。
 でも、日本の甲冑だの、刀だの、女の私が見たところで興味が持てる筈はありません。
 祖父が絶賛する浮世絵とかいう版画の風景画も、なんだか平面的過ぎるし、女の人の絵も変な顔だし、男の人の顔だって入れ墨がしてあるみたいで、とても野蛮。兄が『入れ墨ではなく、舞台化粧だよ』と説明してくれたけれど、やっぱり変だとしか思えませんでした。
 兄がこんなものに憧れて、大学卒業と共に日本へ行ったなんて、私にはどうしても理解できません。
 私はなるべく浅めの呼吸をして、早く祖父の話が終わるようにと、心の中で祈りました。


「ご覧、エイミー。こんなものが出てきたんだ。おまえに見せようと思ってな」
 つまらなそうな顔をしている私を責めることもなく、祖父は楽しそうな笑顔を浮かべて、手を差し出しました。
 大きな祖父の手のひらに載っているのは、大きめの貝でした。
「これ、何?」
 ぶっきらぼうに尋ねると、祖父はそっと、私の手にそれを乗せました。
「蛤という貝だよ。見てご覧」
 貝の内側には黒い漆が塗ってあり(兄が何度も説明するから覚えちゃったわ)、チェリーブロッサムや、キモノを来た女の人の絵が描かれていました。小さな金の粒がきらきらと光って、思わず、私はその絵に引き込まれました。
「…綺麗」
「だろう? こんな小さな貝の中に、細やかな絵が描かれている。日本人は手先が器用なんだね」
 いつもだったら、反発を覚えるその言葉も、今日だけは手の中にある貝の絵の美しさに、私も素直に頷いてしまいました。
「他の絵も、見てご覧。色々な絵が描かれているが、どれも素晴らしいものだ」
 大きな机の上に広げられた貝には、それぞれ違った絵が、どれも華やかで美しく描かれていました。
「おじいさま、どうしてこれは同じ絵なの?」
「その二つを合わせてごらん」
 祖父の言う通りにしてみると、その貝はぴったりと合わさりました。開いて見比べて見ると、手で描いたものだろうに、二つの絵の違いはよく見なければ分からない程の差でしかありませんでした。
「それは、アメリカが独立戦争を仕掛けてきた頃のものだそうだよ」
「えっ」
 300年も前のものだとは思えないくらい、この貝の絵は美しく、仕上りの良いものでした。
「蛤という貝は、ぴったりと合わさるものは決してないと言われていてね、だから、嫁入り道具の一つになったのだそうなんだ。」
「嫁入り道具?」
「そう、伴侶と末永く添い遂げられるように、とね」
 そんな大切な道具が、どうしてこんな遠いイギリスにあるのかしらと、私は首を傾げました。もしかしたら、この道具の持ち主は、夫とうまくいかなくなって、それで手放したりしたのかしら、そんな風に思った私の顔は曇ったようです。
 祖父は、大きな手で私の髪を撫でると、こう言いました。
「『貝合わせ』と言うのだが、こんなに素晴らしい道具を持てたのは、一部のお姫さまたちだけだ。そういう女性は、親の決めた相手と結婚しなければならなかった。この国だって、ほんの少し前まではそうだっただろう? きっと、そんな娘を思い遣った親心なんだろうね」
 今だって、貴族階級では、充分結婚に関してはうるさいじゃない、と私は一人ごちた。両親と共にバカンスへ行かず、ここへ来たのだって、社交界へ顔を出すのが嫌だったからなんだから。
「今でもこんなに綺麗なまま保存されているということは、きっとお嫁に行った先でも、大切に保管されていたということだよ。そのお姫さまだって、きっと幸せに暮らしていたのではないかな」
 おじいさまの言葉に、私は少しほっとしました。 実は、今回のバカンスで、両親は将来のお婿さん候補に内緒で会わせようとしていたのです。それを、偶然立ち聞いてしまって、この屋敷へ逃げてきたというわけなのです。


 私は日本のお姫さまが手にしたであろう貝を、一つ一つ手にとって、描かれている女性の十二単を眺めました。
「何に使うか分かるかい?」
「貝合わせ、って言うのでしょう? だったら、同じ絵を探すのじゃないかしら?」
「そうだね。他にも色々な遊び方があったようだけれど、今ではもうよくわからないのだそうだ」
 その割には綺麗すぎるような気がします。遊んでいたのなら、もう少し欠けたり、絵がはげたりしていてもいい筈なのに。
 その私の疑問は、祖父の言葉で解けました。
「おそらく、実際に遊んだ物は別にあるんじゃないかな。こちらは格式を保つための道具で、持っていることに価値があったんだろう。この貝を入れていたこの大きな箱だって、立派なものだ。身分の高さを表しているんだろうね」
「日本に身分があったの?」
「第二次大戦前まではね。今も、テンノウケという王家が千年以上続いている」
 私は驚いて、祖父の顔をみつめました。千年といったら、我が国よりもずっと長いのだもの。
「この貝あわせは、日本が鎖国を解いてからすぐフランスに渡ったもののようで、父親がシノワーズで一目惚れして買ってきたものなんだ。転売されていないから、綺麗なままなんだよ」
 美しい貝合わせの道具を眺めながら、私はようやく気付きました。日本に兄を取られたような気がして、ずっと祖父や兄の説明に耳を傾けてこなかったけれど、綺麗だと思う気持ちはずっと持っていたのだということを。
「エイミー、これを見せるように頼んできたのは、フレッドなんだ」
 そう。兄は、祖父の部屋で見た日本の物の数々に惹かれて、日本へと旅立っていったのです。 今なら、少しはわかります。こんなにも美しい物を創り出す日本という国を、日本の人たちを知りたいと考えた兄の気持ちが。
 私の強ばっていた顔が、少しずつ和らいでいくのが、自分でもわかりました。それが伝わったのでしょう。祖父は微笑んで、こう言いました。
「秋になったら、フレッドは帰ってくるよ。大学の研究室に戻ってくるのだそうだ」
 今朝貰ったメールには、何も書いてありませんでした。どうして教えてくれなかったのかしら。第一、メールが送られてくるなんて、兄にしてはとても珍しいこと。
 その時、ノックされた扉から入ってきた人を見て、私は息が止まるほど驚きました。
「兄さん…」
 そこにいたのは、日本にいる筈の兄だったのです。
「今日帰ってくるから、エイミーには内緒にしていてくれって頼まれていたんだがね」
 祖父の言葉が終わる前には、私は兄に飛びついていました。
「ただいま、エイミー。びっくりした?」
 頬に口づけてくれる温もりも、抱きしめてくれる匂いも、懐かしい兄のもの。
「お帰りなさい、フレッド兄さん。突然なんだもの。驚くに決まってるわ」
「そのために黙っていたんだから、驚いてくれないと困るな」
 そう言って笑う兄の顔。少し日に焼けたかしら。それに、ふふ、少しおじさんになったかも。
「どう? 少しは僕の研究にも興味を持ってくれた?」
「さぁ、どうかしら?」
 そっけなく答えたつもりだけれど、兄に隠し通せる筈もなく、兄は祖父と顔を見合わせて微笑んでいました。
 でも、これだけは気付いていないと思うの。
 日本のこと、私が興味を持ったのはキモノ・十二単という衣装のことだけれど、兄には内緒で勉強して、いつかきっと驚かせてみせるんだから。
 やっぱり、私にも曾祖父の血が流れているんだわ。
 もう私のことなどそっちのけで、日本の話に盛り上がる2人の笑顔を見つめながら、私は苦笑したのでした。
【完】

著作:李緒
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