月にひとつの物語
『卯月』(紫草版)

〜草紙〜地上界・未来編

『龍牙がどうしても行けというのなら、行ってもいい』

 娘が、そう残して宮中へ嫁いで行ったのは、今から一年前のこと。
 その娘の懐妊が密かに伝えられた。

 人であり、人ではない。
 獣であり、獣でもない。
 それでいて限りなく人に近き者の郷がある。
 古代平安の空の下。これは人との狭間を生きる者と人に生まれついた者との物語である――。

 何の変哲もない川に、都と山は隔たれる。
 その川は結界。
 見えてはいるが、見えていない。渡れるようで、渡れない。その者の許可なくは山に入ること叶わぬ。
 平安京。
 四神の証しを定められた、魔都である。

 迦楼羅と、今は亡き那宇羅という女の産んだ子供たち。
 龍牙は那宇羅に会ったことはなかったが、郷のあちらこちらでは伽耶と共にその気配と二人の思い出話が残っていた。

「迦楼羅。都から使者があった」
 迦楼羅はいつものように、山の奥にある祠の前にいた。その背に声をかけると、ゆったりと頷く姿が幻のように揺れる。
 まるで、この世とあの世の狭間に在るような、不確かな迦楼羅の存在。
 いつの頃からだろう。迦楼羅には、待っている人がいるのだと気付いた。どうにもならない相手を、ただ心の片隅で待っている。

≪視得ている。大丈夫だ≫
 そう頭の中に届く聲で云って振り返る迦楼羅は、やはり圧倒的に美しかった。
「何か祝いの品を贈ってやろうな」
 彼女の側まで行き、隣に座り込む。
≪宮中には必要なものは揃っているんじゃないのか≫
「それでも親が贈るものは特別だろう」
 そう言ったところで、迦楼羅が龍牙の顔の覗きこむ。
「何だよ」
≪だったら龍牙が贈ればいい。あの娘もその方が嬉しいだろう≫

 その言葉に深い意味がないとは言わない。
 あの娘は迦楼羅の子でありながら、そして仙である龍牙を父としていながら、ただの人として生まれてきた。何の力も持たず、最初から人のなかに送りだす定めの赤子であった。
 しかし、あろうことか。あの娘は龍牙に恋心を抱いた。龍牙の許を一生離れぬと言った娘。
 その想いを知った迦楼羅が、数年、郷から消えたこともあった。
 郷にとって、そして娘にとって、何が正しく何が間違いかを教えた。それでも郷を出ていかないと言い張った。

 以前なら伽耶が諭したことを、今は龍牙がする。だからこそ、娘は我が儘を通そうとした。
 その時、龍牙の内で覚悟が決まった。必要なのは迦楼羅だけだと、告げたのだ。
 ところが 迦楼羅など帰ってこなければいいとまで言い切った娘。
 それを説き伏せ、嫁がせたのは龍牙自身だ。

「あいつは俺自身の子だ。親として孫に贈り物をするだけだ」
 そう投げ遣りに言うと、迦楼羅が笑いだした。
「珍しいな。お前が笑うなんて」
「龍牙が向きになっているからだ」
 思えば迦楼羅と子供のことで、こんなに穏やかに話をしたのは初めてかもしれない。
「迦楼羅。俺は、この郷の子は皆可愛い。ただ、あいつだけは突き放してしまったから。最後まで見ていてやらないと」
 そう言いながら、迦楼羅の体を引き寄せる。
 見上げてくる潤んだ瞳に、吸いこまれそうになる。
「俺だけを見て」
 ふと漏らしてしまった言葉に、自分自身に驚いた。こんなこと、言う心算なんてなかったのに。
 ごめんと言おうとして、迦楼羅に口を塞がれる。
「今は、龍牙しか見ていない」
 そう呟きながら唇を合わせてくる迦楼羅を、龍牙は愛おしく抱き締めた――。

 現在(いま)。
 永き時を経て、リューシャンの生まれ変わりである迦楼羅が、土地を守る者より知らされた曰くの素性の男の亡骸は、この北山杉の土に眠る。
『リューシャンの父とはいえ、弔いの言葉など必要はないだろう』
 そう言う迦楼羅ではあったが、その隣に建てた祠をそれは大事にしていると郷の誰もが気付いている。
【了】

著作:紫草

卯月(李緒版) 月にひとつの物語-contents
[草紙] *別窓で開きます。*迦楼羅と露智迦の物語です。
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