――時は平安。
身分の高い女にとって、婚姻とは政治的な繋がりのなかで行われる通過儀式そのもののようだった。
「姫様、お仕度が調いましてございます。ご確認下さりませ」
仲のいい侍女が御簾の外に手をついて、頭を下げている。
「何故、入ってこない」
「姫様は、すでに身を清められるべき日取りに入っております。私共は近寄ることなりませぬ」
一度も顔を上げることなく、彼女は姫に向かってそう諭した。
これまで全ての仕度を手伝ってくれていた彼女さえ、最早近くには来られない。何がどう違うのだ、と姫は嘲笑する。
自らの心が一番、穢れているというのに…。
嫌だと、何度も嫌だと言い張った二の姫の婚姻は、左大臣の命令という形で進められていった。
何がそんなに嫌なのだ、と聞いても一言も話さぬ姫に、単なる我が侭だろうと誰も相手にはしなくなった。
しかし、それは違う。
姫の胸のうちには一つの想いが在る。ただ一度だけちらりと見かけ告げられた言葉を、投げかけられた約束を忘れることができなかった。
名も知らぬその方に恋焦がれているなどとは、誰も気付くことはない。
忘れえぬ想い。
姫はいつしか覚悟を決めていた。
他の男のものになるくらいなら、神の御許へ召されようと。
「お姉様。この度のご婚儀、おめでとうござります」
末の妹が、祝いの言葉を告げにきた。
「三の姫。赤子を置いてきて宜しいのですか」
この妹は、姉である二の姫よりも先に嫁していた。先頃、一人目の赤子を産んだばかり。姉より先に片付いてしまったことをひどく気にしていたから、この度の話を誰よりも喜んだと聞いていた。
二の姫は少しだけ、この幸せを独り占めしている三の姫に意地悪をしてみたくなった。
「めでたくなどありませぬ。私は、このお話をお断りしたのですから」
自分で思っていたよりも、激しい憤りを声音に乗せてしまっていた。
「お姉様…」
本当に驚いたのだらう。三の姫はなかなか二の句を継げなかった。
「それは、真にございますか」
今度は、言葉なく頷くだけだった。
「ならば何故、お仕度が調えられるのです。おやめになれば、よろしい」
そう言った三の姫は、二の姫が知る甘えん坊の末の妹などではない。思わず、その心中を吐露していた。
「誰も聞いてはくれませんでした。どんなに嫌だと云っても、貴女よりも後になってしまったことが汚点となるのでしょう。仕方のないことです」
泣くつもりなどなかったのに。もう泣いてどうなるものではないと、諦めていたのに。なのに今また、涙が溢れる。
「お話を伺いませう。何があるのですか」
二の姫は、彼女が妹だなどとは最早考えなかった。誰にも聞いてもらえなかった、幼い戀を語り涙する。
「本当に、お名もお屋敷も憶えていらっしゃらないのですか」
少しでも憶えていれば、それに縋って話ができた。
でも何も憶えてはいなかった。
何処かの屋敷の、花の宴。舞い衣装を身に纏ったその方は、今では夢幻のなかに現れたのかとも思うほどだった。
「お任せ下さりませ。私が何としてでもその方を捜して参ります」
え。
それだけ云ったかと思うと、三の姫は昔通りの元気な様子でばたばたと廊下を駆けて行った。
あゝ、やはり母上のお叱りを受けている。
御簾の陰より垣間見える姿は、とても謝っているようには見えぬ。二の姫の顔に久方ぶりに笑みが浮かんだ。
しかし、どんなに三の姫が駆けずり回ってくれたとしても自分ですら見つけられなかったその方を捜せるとは思わなかった。
やがて日柄よく、婚儀の日が訪れる。
懐剣は忍ばせた。
人の想いを道具とも思わぬ、女には心がないとでも云うような父上に対する抗議も含め、宴の終わった後にする。
気付けば、侍女頭が部屋に引き上げろという合図を送っている。
もう、どうにでもなれ。そんな思いも手伝って、二の姫は宴の席を辞した。
「お姉様」
部屋に戻る途中の廊下である。いくつもある部屋の一つから、それは聞こえた。
小さな声である。
でも確かにそれは三の姫のものである。どんなに諦めたとは云っても、最后まで待ち続けていた声である。
「三の姫」
「ご安心なされませ。決して、その忍ばせたもので早まったことなどなさりませぬように」
「それは、どういう…」
しかし三の姫の声は、これ以上を告げることはなかった。
安心せよとはどういうことだらう。
ただ待っていれば、この話がなかったことにでもなるのだらうか。
不安にかられながらも、一先ず部屋に戻りすぐには懐剣を使うことは止めようと、思うのだった。
暫くすると、衣擦れの音が聞こえてきた。
二の姫は絶望に打ちひしがれた。
やはり、あの三の姫の声は自らが起こした幻か。
姫がその手を、懐に入れようとしたその刹那――。
「いつか、お迎えに上がります。それまで誰のものにもならず、吾を待っていて戴きたい」
それは、夢幻の君が二の姫に告げた言葉である。
三の姫にも教えなかった、その言葉を何故ご存知か。
御簾が上げられる。
そこに、時の流れなどまるでないかのような、かの君が姿を現した――。
声もなく、ただ顔を扇で蔽い涙する二の姫を、かの君は大事に抱き締め腕の中に包んでしまう。
「まさか。何の縁もない姫君が紛れているとは夢にも思わず、流石に諦めかけておりました」
かの君はそう話され、姫の顔を覗き込む。
「まだ小さな姫だとは思いましたが、まさか隣の屋敷の庭から紛れてきたお姫様だったとはね」
え。お隣のお庭…
「こちらの婿である五の君が捜してくれなければ、きっと今日の日には間に合わなかったでせう。あのじゃじゃ馬三の姫も偶には役に立つようだ」
そう。三の姫は婿である五の君に、姉の一大事と話を漏らした。
そして彼は、自分の身内に夢幻の姫を捜していた男のいたことを憶えていたのである。
話を聞いた左大臣は、急遽、入れ替えを進言した。勿論、相手には相応の金子を払うことにはなったが、娘に嫌われるよりはよいと大盤振る舞いだったそうだ。
左大臣は、一番可愛がっていた二の姫だからこそ、一番好い相手をと思うあまり肝心な姫の想いを聞くことを忘れてしまったのである。今では、三姉妹がそれぞれ、想いの叶った婿との暮らしを楽しんでいると喜んでいる。
女の婚儀は、世の流れと共に様々に変化を遂げる。
調度や慣習も、それぞれの時代が彩られる。
しかし、いつの時代も慈しむ気持ちのなかにその暮らしがあれば、人は幸せに思うのではないだらうか――。
【了】