〜京極〜
結局、肺炎を起こしていたゆみ乃は、そのまま高倉の車で運ばれ入院することとなった。
連絡すると、流石に慌てた社長は会社の方はいいからゆみ乃に付き添ってくれと言う。
正直、困った。
看護師に渡された入院の手引きには、男の自分にはどうにもならない内容のものもある。
「困ったな」
言葉にもなっていない呟きであった筈なのに、熱にうなされ寝ているゆみ乃は気付いた。
「高倉さん。私、どうしたんですか」
まだ熱で朦朧としているにもかかわらず、彼女の言葉は正確に伝わる。
何だか胸がつまった。
「肺炎を起こしていました。ここ、三田村病院です。分かりますか」
聞こえたのだろうか、と心配になるくらい呼吸が苦しそうだ。当然、返事もない。
「誰か、呼びますか」
そう言うと、彼女はうっすらと目を開けて微かに首を横に振った。
いつも、こうして一人っきりだったのだろうか。
「俺がついてます。必要なものを揃えたら戻ってきます。何か欲しいものはありますか」
そう言って顔を覗き込む。何か言おうとしても、声が届かないだろうと思ったからだ。
すると、はっきりとした声で彼女は言った。
「何も要らない。ただ…そばに居てほしい」
一瞬、誰に、と聞こうとした。
しかし、その時には彼女は再び瞳を閉じていた。
「誰のことだよ」
竜平の言葉も、今度は届かなかったようだ。
小さなため息と共に、僅かな苛立ちが湧き上がる。
「そばにいて、か」
仕方なく、ナースステーションにいた看護師に声をかけ地下にある売店へと向かった。
戻ってきても、ゆみ乃は眠ったままだった。
甦る、ゆみ乃の言葉。
『そばにいて欲しい』
いったい、誰にいて欲しいのだろう。
うっすらと額に汗が浮かんでいた。
竜平は買ってきたばかりのタオルを取り出し、洗面所で濡らした。それを、前髪を持ち上げるようにして額に置く。するとゆみ乃は驚いたように目を開けた。
「悪い。起こすつもりじゃなかったんだけど」
「…」
彼女の唇は言葉になることはなかった。何故なら、その時社長が入ってきたから。
「ゆみ乃。具合はどうだ」
社長はまっすぐにゆみ乃の許に向かう。竜平は黙って病室を後にした。
とりあえず一階の総合受付前の待合いに行く。まだ帰るわけにはいかないが、今夜は社長が残るだろう。
一般の診療が終わってしまうと、病院という場所は恐ろしく不気味なところだと思う。
救急車のサイレンが確実に近づいてくる。こういう時は、背中に嫌な汗が流れる。
憶えている筈のない記憶。
コインロッカーから見つかった竜平は、生後二時間程だったと聞いた。救急車に乗った記憶がある筈もない。
施設で育ち、中学卒業と同時に放り出された。
何もできない、進学も就職も。日雇いの、その日限りの仕事で生きていた。
「あの日、社長に会わなかったら、俺はどうなっていたんだろう」
何も聞かれなかった。ただ腹がへっているだろうと、駅下の汚いラーメン屋に連れて行かれて、でも味は抜群に上手かった。
そして翌日、日雇いの仕事を貰うための列に並んでいると、再び社長がやってきた。
その時の竜平は、ろくでもない仕事をさせるつもりで近寄ってきた男だったかと社長を睨みつけ舌打ちした。ラーメンと焼き飯と餃子。それで買われた。用が済んだら、海に沈められると本気で思った。
「なのに、あの人。学校行けって」
前日同様、何も聞かれないまま連れて行かれたのは、有名な私立の高校だった。
こんな自分でも知っている程の、曰く付きの学校は特別な場所にある。ヘリに乗せられ連れて行かれた先は、噂でしか聞いたとこがない“いにしえ高”だった。
いにしえの郷にある、とある一族の関わる有名な中学から大学院までの一貫校。
ヘリから見えたのは、広大な海に浮かぶ近代的な島だった。
異存はなかった。いつか殺されるんだとしても、切望した高校に行かせてくれるという。それも金や生活の心配は一切なく、寮に入りただ学べばいいのだと。高校を出れば大学、そして大学院と進み、望めば学者にでもしてくれるのかと思っていた。
それが違うのだと知ったのは、就職の話が出た時だった。
それまで京極という名前を知ってはいても、縁のない人たちだと思っていた。社長は自分の名を名乗らなかったし、自分も聞かなかった。京極は、とにかく力を持っている一族だというだけだ。
『仕事をしてくれ』
そう言った社長は、自分の会社に就職させると言った。
竜平は薬学を学んだ。それは誰かに言われたからではない。薬局の薬剤師にでもなれたら、就職に得かと思ったからだ。
まさか社長の会社が、薬を研究して作っている会社だったとは夢にも思わなかった。
『こんな偶然ないだろ。折角だ。研究室でも営業でも好きな所で武者修行しろ。最后に一番やりたい部に配属してやろう』
そして初めて名刺を渡されて、社長の名が京極逸朗だと知った。
「竜平」
後ろから声がして、社長が現れた。
「ゆみ乃のこと、頼むな」
立ち上がり振り返るのと同時に、そう言われた。
「え。社長が付き添うんじゃ」
「俺じゃ駄目だ。ゆみ乃は気を使い過ぎて、折角入院してるのにゆっくり寝ることもできない」
でも薬で眠ってるんだから、と言おうとして思い出した。
往診にきた中川が、こんな状態で三日間医者にかかってないなんて自殺行為だと。
もしかしたら、ゆみ乃は社長がいると眠れないのか。
あのタイミングで目を覚ましたのは、タオルを置いたせいではなく、ゆみ乃の本能が父親の来ることを察知したからとか。
「分かりました。付き添います」
「もう暫くいるから、一度帰って着替えてこい。シャワーは病室についてるのを使っていいから」
そして、一週間くらい詰める心算でな、と付け加えられた。
複雑な思いだった。
社長は何を考えている。
京極は、選ばれた者の一族だ。金を出せば、家政婦だろうと付き添いだろうと簡単に人は揃えられる。
何故、自分なんだ。
「女性用の下着なんて分からないぞ」
アパートまでの帰り道を歩きながら、ついぼやいた。
京極から見れば、拾った汚い子供など人だなんて思ってないんだろうな。
でも人だ。どんな施しを受けても、どんな使われ方をされても、最後には海の藻屑となろうとも。
「ゆみ乃…」
初めて会った時、ゆみ乃は高校生だった。
恥かしそうに社長の背中に隠れていた。その姿を思い出し、その後の彼女を思い出した。
早く戻ってやろう。
竜平はアパートへの道を急ぎ、改めて病院へ取って返した。
ナースステーションは病室からのコールが聞こえるだけで無人だった。きっと病室から病室へと走り回っているのだろう。竜平はそのまま前を通り抜け、病室に急ぐ。
ゆみ乃が眠っていたら、と思いスライドの扉を少しだけ開いて社長を呼ぼうと思った。
しかし声をかける前に、扉は大きく開かれ社長の姿が現れた。
「早かったな」
持っていた小さなボストンバッグを社長に取られたというのに、すぐには気付けない程、自分は驚いていた。何故なら、ゆみ乃がベッドに起きている。
手を引かれ、部屋に入る。そこで右肩を掴まれ、漸く我に返った。
「私は明日から出張だ。一週間後に来る。それまで、ゆみ乃を頼む」
思わず、自分も行くと言おうとした。
「お前は来なくていい。代わりはいる」
その言葉は、何を意味するんだ。
辺りの温度が一気に下がった気がした。
「俺は、もう要らなくなりましたか」
そんな問いかけに、今度は社長の方が驚いた顔をする。
「莫迦を言うな。ゆみ乃の世話はこの世でお前しかできないんだぞ。見ろ。結局、俺がいるから寝やしない。こいつは孤独でいる時か、竜平といる時しか休めないんだよ」
じゃあな、と社長は手を振って扉の向こうに消えた。
すかさず、ゆみ乃の声がする。
「ごめんなさい。また父が変な勘違いしてるみたい。高倉さん。私はもう大丈夫ですから帰っていいですよ」
そこまで聞いて、振り返る。
「社長は、何と言われましたか」
そう言うと、ゆみ乃は困った顔をしてみせる。
ベッドの端に座ると、重みで少し傾いた。
「教えて下さい、社長が何と言ったかを」
近づく距離。感じる息遣い。
「ゆみ乃」
意識して、彼女を呼んだ。
大きな瞳を更に大きくして驚くのがわかる。
もう一度、呼ぶ。
それでも、彼女は何も答えない。