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〜京極〜

『至極近距離恋愛』2

 澪がいなくなって、学年がひとつ上がった。

 エスカレーター式の私立大だ。本来なら、そのまま澪と一緒に登校する筈だったところだ。
(俺、澪がいなくなっても平気なんだろうか)
 ふと、そんな考えが脳裏を掠める。
 こんなに長い間、澪と会っていないことなどなかった。それこそ物理的に無理な時(学校とか、部活とか)を除けば、片時もそばを離れたことはなかった。
 祖母の手前という建て前があったにしろ、広い屋敷とも呼べる家だからと言い訳しながらトイレにも付いて行ったし、風呂に行くのも一緒だったのだ。

 去年の夏から、もう半年。否、まだ半年だろうか。
 愛介は、自分の気持ちを決めかねていた。
「もしかしたら澪はこのまま、俺の知らない、俺の目の届かない何処かで、俺じゃない誰かと暮らす方が幸せなのかもしれない」
 そう呟いた愛介の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた――。

 警察からの定期連絡では当てにならないと、祖母は探偵を数社から雇った。
 それはそうだろう。
 事情を聞けば聞くほど、自力で失踪した可能性の方が有力な見方なのだ。
 今時、先祖の約束を理由に結婚を強要されることはない。澪が望めば、それなりの施設には入ることにはなっただろうが、京極に縛られる理由など、どこにもなかった。どんなに由緒ある家柄と言ったって、所詮分家筋なのだ。

 未成年とはいっても、すでに義務教育を終えた澪は警察からは単なる家出人としか扱われていない。ただ、祖母だけが澪はそんな娘ではないと言い張った。
 誰も、両親も京極の親戚も、そして愛介ですら澪は自分から家を出ていったような気がしていた。
 何故なら、二人の間には何もない。
 紙切れ一枚の許嫁であった二人は、互いの気持ちを伝え合う必要すらなかった。
 ただ今から思えば、自分は澪からどう思われていたのか。何も知らないことに気付き愕然とした。

「…介。愛介」
 あれ。誰かに呼ばれた。
 ソファで転寝をしていた彼は、その声に飛び起きた。
「ベッドで休みなさい。もう澪がいない生活にも慣れないと、お前が駄目になってしまいます」
 そう言う母の淋しそうな顔が、目の前にあった。
「悪い。大丈夫だから。それにソファの方が熟睡できる。気に、しないで」
 単語のひとつひとつを、わざとゆっくりと区切って話す。
 もう何度目だろう。同じ会話の繰り返し。
「愛介は、本当に澪のことが好きだったのね」
 やっぱり同じ言葉を残して、母がリビングを出ていった。

 本当のことなんか、わからない。
 好きという感情だって、よくわからない。
 ただ、ずっと育ててきたんだ。小さな頃から、大事に大事に育ててきた。手塩にかけるという言葉がある。それが今の自分には一番合っていると思う言葉だ。
 そこに愛情があるのかもよく分からない。
 ただ、一緒に暮らした部屋に戻る気はしなかった。
 あそこには澪の気配が残っている。体の関係がなくとも、共に眠ったベッドには澪の匂いが満ちているような気がする。
 自分では、そんなに弱い人間だと思っていたわけではないけれど、こうなってみると自分の方が余程澪に甘えていたことが分かる。
 だから、もう二度と澪に会えないとしても、自分は澪のことを考えながら暮らすのだろうと思う。

「こんなことなら、澪が十六の誕生日に入籍してしまえばよかった」

 失踪する一ヶ月前。澪は十六の誕生日を迎えた。
 祖母は、結婚させると息巻いていたが、結局高校卒業まで待つことになった。それは愛介の希望でもあったし、学校の書類等の問題でもあった。何より、澪自身が嫌だと言った。

 あの時は、深く考えなかった。
 でも、あれは澪の意思表示だったのかもしれない。
 一ヶ月後、知らない誰かと失踪するつもりの澪には精一杯の抵抗だったのかも。
 そう思うと、愛介は胸を締め付けられるような痛みに襲われる。
「澪…」

 食も細くなり、体力も落ちていた愛介は数日後病院に運ばれることとなった――。
 誰の目にも明らかに、澪を失ったことによる心神喪失だと見てとれた。

著作:紫草


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