『愛花』
小学校四年生の愛花を連れて、母親である篠山雅(ささやま みやび)は崇の元を訪ねた。
彼女は、崇が狙いをつけた黒い噂のある某代議士の愛人だった。
「何も云うことはないわ。この子は彼とは関係ないの。私の子。この子を育てて。ちゃんと育てて。私は、それを見てる。愛花を見てる。お願い、今は、それしか云えない」
雅は云いたいことが無くなると、少女を残し帰っていった。
崇の追っていたのは、愛人の数には定評のある代議士だった。
しかし多くの代議士が、そうであるように家族を壊す心算はないというもの。
ところが一人だけ、別格扱いの女を見つけた。
崇は、この女を見つけ出し喰らいつくことを決めた。
その矢先、相手の女に見つけられたのだ。
これは交換条件だろうか。
否、そんな筈はない。人質は手元に置いてこそ効果がある。我が子を預ける雅に、崇は合点がいかなかった。
どちらにしろ、今の崇には子を育てる術などない。途方に暮れていると、愛花と名乗った少女が口を開いた。
「私を置いて。私が此処にいる限り、貴方は死なずに済むから」
崇は、この少女の言葉に戦慄を覚えた。
死ぬ、誰が。
自分が?
「それは、お母さんが云ったこと?」
少女は首を横に振る。
「じゃ、誰が?」
「おじさん。貴方が追っている代議士の第三秘書」
背中に冷たい汗が流れた。
「盗み聞き?」
今度は、うんと頷く。
「ここに来るって、誰が決めたの?」
「私」
「お母さんは、何も云わないの?」
「あの人は、自分じゃ何も決められない。私が決めたら駄目と云うこともできない」
そう云い切った少女は、真っ直ぐに自分を見ていた。
何て凄い少女なんだと思った。
否、違う。少女なんてもんじゃない。大人の人間の目だ。
「どうして、俺のとこ、来てくれたの?」
「貴方が好きだから」
愛花の、その言葉に心臓を射抜かれたような気がした崇であった。
結局、その言葉通り、愛花は崇を想い続け、崇もまた愛花を手離すことが出来なかった。そして想い続けた年月は、親子という倫理すら越えていった。
後から思えば、愛花の戸籍を守るため、何もしなかったことが幸いした。通称は篠山だが、崇の戸籍は河鹿(かじか)のままだ。下手に画策して、愛花の云うように二人で海に沈められたら洒落にならない。単なる同居人は父ではなく、結婚に何の支障もきたさなかった。
九年後、全てを話すと雅が多くの証拠を持って支社へとやってきた。何故、急に気が変わったのかと問いただすと、病で長く生きられないことが分かったからだという。死ぬのなら、それまで愛花と一緒に暮らしたいと思ったそうだ。
崇は、その証拠を手にスクープを取った。
愛花の高校卒業と同時に本社へ移動した際、崇は篠山の戸籍へと入った。俗に云う婿養子という扱いだ。
だが誰も、この二人が結婚をしたとは気付かなかったのである。
あの日。
初めて、崇の家へ来た日。
十歳の愛花は云った。
「炊事、洗濯、掃除。全部するから、ここに置いて下さい。これって押しかけ女房って云うのでしょ」
と。
崇は笑って、いいよと答えた。俺の嫁さんになってくれと。