『愛花』
終着駅。
愛花の切符では、すでに乗り越し清算の必要があった。清算機の前で、愛花が困った顔をする。大崎が、どうしたんだと聞くと、空の財布を見せられた。
「お前…。あの駅で降りて、どうする心算だったんだよ」
「歩いて帰ろうかな〜、とか」
冗談だろ。一日かかるぞ。
しかし愛花の顔は、冗談を言っているようには見えなかった。そういう訳の分からないところが、大崎の琴線に触れた。
その場で、父親に電話を入れる。電話番号は、職権乱用で携帯のメモリーに入れてあった。
自宅には誰もいないようだ。次に仕事用に使っているという携帯に掛けてみる。するとコール4回目で、反応があった。
篠山に了解を取る。素直に、愛花を連れて行きたいと話した。
二学期の終わり、個人懇談に現れた彼を思い出す。背の高い、垢抜けた二枚目の良い男だった。
暫時、沈黙の後、了承するとの答えが返ってきた。それを、そのまま愛花に告げると、ただ黙って頷くだけだった。
喜んでいるのか、悲しんでいるのか。
その不思議な表情は、大崎には、どうとっていいのか、全く分からないものだった。
数十分前。降車予定の駅に着いた時、降りようとした愛花を引き止めたのは大崎だった。
立ち上がった愛花の左腕を掴む。
間に合わなくなる、と云う愛花を再び座らせ、その唇にキスしていた。
長く、長く…。飛んでいってしまわないように、抱きしめた。
自分でも、よく分からなかった、何故、ここまでしたのかということが。強いて云うなら、自分の中に隠れていた衝動だ。
電車の動き出す振動が体に伝わり、漸く愛花から離れた。
愛花の視線が、車外に向けられる。後ろに飛ぶように映る枯れた山々を、静かに眺めている愛花に、すぐには言葉をかけられなかった。
「悪い。でも、このまま帰したくない」
愛花の視線が、漸く大崎の瞳を捉えた。
その後、終着駅に着くまでの二人の時間に会話はなかった。