『あきらV』

 電話が鳴り出した。
 とりあえず、ナンバーディスプレイを確認する。
 知らない人だ。どうしよう。
 しかし時間的に、学校関係の人からの電話かもしれないと、私は受話器を取った。
 聞こえてきたのは聞き覚えのない、年配の女性の声。
 にもかかわらず、その声は、
――元気にしとった?
 と馴れ馴れしく聞いてきた。
「あなた、誰?」
 私の声が鬼のように冷たかったのは云うまでもない。ただ、その声の主は、そんなことは関係なしに一人で話し続けていた。
 よく聞くと彼女は、昔私がバイトをした喫茶店に隣接する、旅館の仲居さんだった。そして、よくよく話を聞くと、確かにそんな人がいたことを漸く私も思い出した。それでも何故、ここの番号が分かったんだろう。すでに実家はない。電話帳にも載せてない。彼女から私に結びつく処は全て切れている筈だった。
――あ〜彼よ。
 そんな私の疑問に、彼女は笑いながら答えた。
 昔、同じ旅館の系列に従兄弟が職人として働いていた。蛇の道は蛇。彼女は現在、小さな居酒屋を経営しており、従兄弟も名古屋で板前として働いている。廻りまわって、そこから私の番号を聞き出したのだと云う。殆ど会うことのない従兄弟ではあるが、調べようと思えば連絡先くらいは分かるのだ、ということも判明した。
 そして、ここから長い長い彼女の四方山話が始まったのである。
 居酒屋“やどりぎ”
 彼女は一人息子を育てながら、店を切り盛りしていた。いつしか息子も大きくなり、自分も店に入るからと調理師免許も早々に取得。ただ彼女から見て、息子はお客さんに対する気持ちに欠けていると思ったのだという。そこで何処でもいいから武者修行ならぬ、板前修行をして来いと追い出した。
 しかし、その顔の作りの良さが災いし、何処でも問題起こしてクビ。遂には駅裏にある煌びやかなネオン街、水商売の世界へと入り込んだ。
――いいのよ。何処でも。お客さんが大事だということを心の底から知ってくれたらね。そんな時、いつも冬子ちゃんの話をした。近くにいるだけで人の心を教えてもらえるのにって。
 私は突然、名を呼ばれ、驚いた。
「何で、そんなこと思うの?」
――あの女将さんの下で傷付いて泣く仲居は多かった。年は十九、二十歳の冬子ちゃんの方が半分以上下なのに、みんな冬ちゃんの言葉に慰められて、頑張ってた。そんなに憶えていないかもしれないけれど、みんな冬ちゃんがバイト辞める時泣いたでしょ。
 確かに憶えている。
 勉強の都合もあり、大学二年の途中で辞めることにした。その時、みんなが送別会を開いてくれて、最后はみんなが泣いてくれたっけ。女将さん、キツイ人だったからね。
 でも遠い親戚だもん。フォローしてたにすぎない、と彼女に云ってみたが即座に否定された。
「かいかぶりだよ」
 小さく云った私の言葉は、その時、彼女の後ろから聞こえた声に掻き消されてしまう。
「誰?」
――息子。これから出勤なの。
 そうね、水商売の時間だわ。
 でも私の云いたいのは、そうじゃない。今の声“しゅん”…。
「俊」
 彼女は、受話器を当てたまま、遠くにいる彼に向かい名前を呼んだ。
「冬子ちゃんだよ」
 どたどた、と凄い音がして、何でだよ、という文句ばかりが聞こえてくる。そして、
「絶対に切っちゃ駄目だよ。待っててね」
 どんな状態になっているのか、皆目見当もつかないまま、私は受話器を握り締めていた。
 何故だろう。切ってしまうことは簡単だったのに、それでも、切ろうとは思わなかった。
 受話器に、彼の深呼吸している様が読み取れる。
――冬子さん。本当に冬子さんなの?
「ええ。そう」
――どうしてお袋と話してんの?
「掛かってきたの。大崎さんから」
――お袋から?!
 すると、電話の向こうで、ごちゃごちゃと聞こえるが、今度は受話器を手で押さえたらしく、何を話しているかは分からない。
――俺、今から仕事だから。今度ゆっくり掛けてもいいかな。もし冬子さんが嫌じゃなければ。
 番号を知られてしまった以上、彼は掛けてくるだろう。うだうだ云うのは好きじゃない。私は素直に承諾した。そして子がいる時間は絶対に駄目だと念を押し、彼はメルアドで確認すると約束をした。
 あちゃ〜
 もらった紙、捨てちゃった。
 正直に云って口頭で、直接携帯に打ち込んでいく。
――信じらんない。金払ってでも欲しいって云われるのに、破って捨てるなんて。
 彼、大崎俊はそう残して出て行った。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 神様は、私に何をしろと云うのかしら。
 仕方が無い、と諦めながらも、面倒だけは御免だと固く誓う私が居る。
 それは、あのパスタ屋での別れから、半月程経った七月七日のことだった――。

著作:紫草

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