『あきら[』

「ね、聞いてる?」

 はっ、と我に返ると目の前に俊がいる。
 どうして此処に俊がいるの?
 此処、私の家よ。

「だって、この人、旦那さんなんだろ。じゃ、挨拶しなきゃ。冬子は俺が貰いますって」
「やめて! 何を云うの。私は俊とは一緒にはなれない」
 そう云った時、涙がはらりとこぼれた――。

 ――気付くと布団の中だった。隣には子の寝息が規則正しく聞こえている。
「夢・・か」
 私は、全身汗をかいていた。気持ちの悪い汗。どうして、あんな夢を見たんだろう。

 俊が、彼と話をする。そんなことはあり得ないのに。
 いいえ。
 彼が、誰かと話をするなんて、もう二度とあり得ないのに…。
 彼が、夫が誰かと話をする。
 そんなことがあったら、私はどうするだろう。

 8年前、事故に遭い、そのまま目を覚まさない夫。病院を出ることのない夫。子供が産まれたことも知らない夫。私を、二度と認識しない夫。
 もう愛しているのか、いないのか、自分でも分からない。ただ、次第に似てくる子の仕草に、ドキッとしている私がいる。
 夫の為に、という言葉で私は此処に居る。

 事故に遭った時、私たちは結婚して三ヶ月も経ってはいなかった。子が出来たことすら知らない夫に、回復の見込みはないと医師は告げる。夫も医師だった。その為、最高の治療を受けられ、そのお蔭で失う筈だった命を繋ぎとめた。それでも、呼吸の止まった二時間を取り戻すことは出来ないだろう。夫は、二度と目を覚ますことはない。
 しかし、親は違う。植物状態は脳死ではないという。当然だ。
 治療費も生活費も、何の心配も要らないからと云われ、私は子を産むことを約束し、此処、夫のマンションを離れられずにいる。
 時折、観察するように訪れる義母。恋人を作っては駄目と、その度毎に聞かされる。その点、義父は違う。恋人は作ってもいいが、離婚は許さないと云う。
 しかし、どちらも、私が嫁の立場を離れることを許さない、という点では一致していた。身を寄せられる処のなかった私は、夫の両親の元で子を産んで、一人で育ててきた。その子も小学校へ進級し、世間が分かってきたところ。

 夫は生きているの?
 私は幸せなの?
 子は幸せなの?
 夫は、何を望んでいるの?

 そんな日々の自問自答の中、俊は現れた。
 私は、今どうしたいんだろう…。

 俊は聞いた。
 俺のこと、どう思っているのか、と。

 今の私には何も答えられない。
 たとえ、俊を愛していると分かっていたとしても――。

著作:紫草

inserted by FC2 system