『海豚にのりたい』

その壱「龍神の章」

1

水際
 海の匂いがする。
 深く深く息を吸い込む。すると体の中に海が入り込んでゆくような、そんな感覚に囚われた。
 薄桃色の日傘の生地を透けて、太陽の日差しが降り注ぐ。その光は日傘を通してさえも、眩しく体を照らし出す。アスファルトから反される熱気も、白いサンダルも、体温の上昇に拍車をかける。
 病院を出てからまだ十分と歩いていないのに、額にはうっすらと汗が浮かび、一歩近づくたびごとに潮の香りはきつくなる。

 浜辺に着くと、小さな子供の手を引いた老婆が会釈をしてくれる。加奈子も思わず頭を下げる。
「暑くなりましねぇ」
 少し背の曲がった老婆が、砂浜を掘り始めた子供の後ろに立ち、彼女に声を掛けてくれる。孫だろうか。麦わら帽子をかぶった少女は無心に穴を掘り始め、小さな爪を砂まみれにして、一心不乱という言葉はこういう時のためにあると思わせる。少女の小さな独り言は、老婆の失笑をかっている。
「本当に」
 加奈子は少しだけ微笑んで答えると、水際に向かって歩き出す。

「お嬢さん、危ないよ」
 後方から、先刻の老婆の声が届いた。加奈子は半身だけ振り返り微笑んだ、大丈夫と言う代わりに。
 寄せてはかえす小波に、ゆっくりと足を浸す。冷たくて気持ちがいい。
 一歩、また一歩と海へと歩んでゆく。ほんの少し前まで穏やかだった波に“何か”が少し加わった。何故なら、加奈子の足が強引に海原へと連れて行かれたからだ。加奈子は水温が一気に下がったような感じがして、履いていたサンダルを脱ぎ捨てた。

(あ〜ここが浅瀬かぁ)
 加奈子の白いワンピースが、風にふわりと揺れた。肩のところに幾重にも付いている白いレースも、同じように揺れていた。
 足の指の間に感じる、さらさらの砂の感触は、加奈子にとって初めて感じるものだった。浅瀬を歩く自分の姿を想像し、ちょっとだけ嬉しくなった。

著作:紫草



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