『海豚にのりたい』

その弐「カイザの章」

1

きっかけ
 桜並木が一斉に花を散らし始めた。
 ほんの少しの風が吹くと、それに呼応するようにざわざわぁと枝を鳴らし花びらを舞わせる。すっかり遅くなった帰宅時間には花見見物の輩も引き上げており、そこでは桜並木の花たちが我が物顔で遊んでいるようだった。
 そういえば、あの時も今のような花の盛りの頃だったか。片時も忘れることのない記憶。走馬灯のようにその記憶が巡る。
 竜崎優作は花冷えの中、冷気を感じ家路を急ぐことにした──。

 あれは確か九歳の春のことだった。歩きながら、脳裏では今駆け抜けた記憶の断片を映し出していた。
 木々の緑は芽吹いているのに、優作の家の中だけは、やけに暗かったことを憶えている。
 それでも彼の気持ちは、大好きな祖母が生きていてくれるだけでいい、と思っていた。病がちで寝たり起きたりを繰り返す日々ではあったが、そこに祖母が生きているだけで、みんなの気持ちが優しくなっていた。父も母も、そして弟も誰もが優しい気持ちを育てていたし、それは近い将来祖母を失うことになっても変わらないと信じていた。
 まさか、あの後、あんなことになるなんて、誰も想像だにしていなかった。

 きっかけは‥そう、六年違いの弟の三歳の誕生日だった。

著作:紫草



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