『海豚にのりたい』

その弐「カイザの章」

2

弟&兄
 人間の優しさの根源は、精神的な安定と金銭的な余裕だ。優作は子供心に、まざまざとそのことを知らされた。
 あの日、優作の家族はガラガラと音を立てて壊れていった。

 あの年の弟の誕生日。
 春の日曜日。
「ケーキを買う」
 と弟は父と出掛けて行った。
 空は青く澄み渡り、桜の花も満開だった、まるで弟の誕生日を祝ってくれているかのように。
 家には祖母と母と、そして優作が残った。
「お兄ちゃんは留守番してて」
 末っ子の弟がそう言ったら、兄である優作は絶対については行けない。いつ頃からか、それが弟の我が儘なんじゃないかと思い始めたが、それを言い出す勇気はなかった。だから、この日も優作はいつものように留守番なのである。
 父子が出掛けて一時間もすると大人達が、
「遅いねぇ」
 と話し始める。何故なら、目当てのケーキ屋は歩いて十分ほどの所にあるからだ。丸いお決まりのケーキは当然予約をしてあるし、おまけの“何か”を買うためにどんなに悩んだとしても遅すぎる時間が経っていた。
 それでも、いったい何処まで行ったのやらと、その時の女二人の言葉はかなり悠長なものだった。
 その日は珍しく布団を上げ、祖母も座敷に出てきていた。急須からお茶を淹れる母に、優作は後ろから、
「サイダー飲んでもいい?」
と尋ね返事も待たずに冷蔵庫へと移動する。そして三本の矢のついた瓶を一本持って戻ってきた。
 女たちが、まさにそんな話をしていた時、電話のベルが鳴り出した。母親は祖母に一声かけて席を立ち、玄関に置いてあった電話の受話器を取った。
「竜崎でございます・・・・・」
 そのまま母親の表情はみるみるうちに変貌し、乱暴に受話器を叩きつけると、近くまで来ていた優作の手を引いて黙って家を飛び出した──。

著作:紫草



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