『海豚にのりたい』

その参「龍の空の章」

4


 ――春宮(とうぐう)が地上界に降りてきて、いつしか数十年の月日が過ぎていた。
 その後、友の“イルカ”は老衰で天寿を全うし、彼は一人になっていた。やがて春宮は様々な生き物に出会ったが“イルカ”ほど仲よくなった生き物はいない。その“イルカ”が亡くなる前に化身(けしん)となることを許してくれた。
 春宮はその後イルカの姿を借り、遠くの海まで泳ぎ回る日々を過ごしていた。人間との関わりは少なかったが、彼には充分だと感じていた。
 一時クジラが「自分になればいい」と云ってくれたが、流石に大き過ぎるだろうと断わった。
 それに、気持ちはイルカになりたかった。地上界での生活を楽しく過ごし始めたのも、イルカのお蔭だった。イルカの姿、泳ぐ様、そして彼自身が好きだった。今、この入り江と海を泳ぐのはイルカの姿をした春宮だった――。

『もう、いいだろう。帰ってこい』
 泳いでいると、頭の上から声が聞こえた。見ると、長(おさ)が海面に浮いている。流石に春宮も、これ以上の我儘は“春宮”という立場を考えても無理だろうか、と考えていた。
 しかし、まだ踏ん切りがつかないことも事実だった。とうとう長本人が降りてきた姿を見て、覚悟を決める時がきたことを感じているのだった――。

『分かっています。でも、今すぐワタシが必要というわけではないでしょう。長は元気にしておられる。もう暫く、ワタシに自由を下さい』
 そう云うと春宮は海中に身を潜(ひそ)めた。今では、春宮の方が断然海には詳しいのだ。イルカの姿で泳いでいってしまったのなら、長がそこに浮いている限り彼は戻ってはこないだろう。
 大きな溜息を残し、長は戻っていった。これで当分来ることは出来ない。何だかんだ云っても、地上界というところは、そうそう簡単に往き来が出来る場所ではなかった。特に春宮は、多くの龍が選ぶ水脈ではない。海という大量の水分を含み、少しずつ増していた塩分濃度が最近特に高くなっていた海の中の水脈なのだ。空気も悪い。こんな所に長時間いたら、長は間違いなく身体を壊してしまうだろう。
 今更ながら、自分の吐いた言葉を浅はかだったと後悔するしかなかった。
〜本当に春宮は戻ってこないかもしれない〜
 屋敷に戻った長は、心に冷たい風が吹きぬけたような気がして一人部屋にこもっていた――。

 随分、遠くまで泳いできた後、春宮はその場に留まっていた。
『まだ、帰れない・・』
 春宮の呟きは、海の中へと消えた。深海を龍形に戻り潜(もぐ)っていく。

〜多くを求めて、この海を訪れる者たちを放っていくわけにはいかない。例え、どんな理由であれ、ワタシの存在が彼らを救う手助けになれば、ワタシは此処を離れるわけにはいかない〜

「あの偉い人、いなくなったよ」
 仲良くなったクジラが知らせにきてくれた。
『ありがとう。もう戻るよ』
「寂しそうだったね。何か、あるのかい」
 クジラが珍しく聞いてきた。
『何でもないよ。さあ、戻ろう』
 春宮は、そう云うとイルカに変わり泳ぎ出した――。

著作:紫草



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