まだ本庄郁代と名乗っていた頃、人と上手くつきあえなかったから結婚できるなんて思ってもいなかった。自分に自信がなくて、学生時代の友人が赤ちゃんを産んだと聞いても、どこか他人事のように感じていた。
短大を卒業して少し離れた紙コップを作る工場の事務に就職できたのも、学校の力が大きかったと思う。工場で働く人はいつも作業着で堅苦しくなく、すごく気さくで有難かった。年配の人が多いのも安心できた。
若い人は苦手。同じ世代の価値観に当て嵌めようとするから。そんな時、父の知り合いの小父様から見合いをしないかと持ちかけられた。
最初は気が進まなかった。
お見合いって、その先にあるものは結婚って決まっていて、もし断ろうと思っても断り難いような気がする。それでも父の顔を潰すわけにもいかず、絶対に二人きりにしないという約束で両親と共にでかけた。
第一印象は、思っていたよりも老けてる。それは見た目ではなく彼、矢谷莉一の持つ独特の雰囲気だ。お蔭で緊張することなく話ができた。否、本人とは言葉かわしてないけれど。同席してくれた父の友達も、真面目な男だという。気のきいた冗談を言えない代わりに、決してふざけた話をしないと。
郁代はどちらかというと、そのジョークと呼ばれるものが苦手。何でも莫迦正直に受け止めてしまって、もの凄く疲れる。それがないなんて素敵かも。
二人きりにならないという話をしていたからだろう。その場で彼は、断るなら今聞きますよと言った。郁代は即答した。
『またお逢いできますか』
一番驚いたのは自分自身だった。
波乱は初めての妊娠中、家の前に捨て置かれていた小さな包みからだ。弱々しい泣き声が聞こえた。お正月休みで偶々在宅していた莉一を呼んだ。
その子が莉玖だ。半年も経たないうちに実玖が産まれ殆んど双子状態の育児となる。でも本当に楽しかった。忙しかったけれど、可愛くて愛おしくて大切な存在になった。
そうして育てた二人が恋をするなんて何て素敵なことだと本気で思ったのだ。
しかし何事も旨くはいかないものだ。高校生になっていた二人が隣に済む赤川皐月との関わりに、否応なく巻き込まれ自分自身も逃げ出すように自宅を離れてしまった。
まさか実玖が、あの色白の綺麗な身体に火傷を負ってしまうなんて。悔やんでも悔やみきれないと泣きたくなった。なのに実玖は笑った。莉玖でも郁代でも、お腹の赤ちゃんでもなく自分でよかったと言って。
そして莉玖は莉玖でたぶん実玖を守るために家を出ていった。すぐに帰ってくると思っていた自分は大馬鹿だ。決して莉玖の名を出さないことで、実玖の想いの深さを思い知らされた。
一度だけ聞いたことがある。このまま莉玖が戻って来なかったら、どうするのかと。
『何も変わらない。一生愛してるだけ』
もう何も言うことはできなかった――。
莉玖が消えて五年、母が匿って大学に行っていたと打ち明けられた時は我が母ながら腹が立った。自分にくらい教えてくれてもいいじゃない。でも母はそれじゃ駄目だという。莉玖の覚悟を見るために、そして戻る時はみんなが同じ思いでいることが大事なのだからと。
そうは言っても、最後は母が折れた。卒業を待たず莉玖を連れてきてくれた。そして一緒に暮らそうという言葉を、またしても断りあの家で待ってるから、いつでもおいでと。今度こそ味方になるからと莉玖に残して。
二十三回目の莉玖の誕生日、実玖は泣きっぱなしばった。
「泣くなよ。もう何処にも行かないからさ」
その声音には実玖だけでなく、郁代も思わず涙ぐんでしまった――。
それより少し前の、とある初冬の日曜日。
実玖は花壇の手入れをするために外にいた。部屋の中から見ていると見覚えのある女性の姿が在る。彼女はもう何年も前に越していった筈だ。何か用があったのだろうか、そう思った時だった。突然頭を下げて謝っている。何事かと外に出て行くと、実玖の腕に見た火傷は自分のせいだと言っている。兎も角、上がってもらって話を聞くことにした。
リビングに通し、実玖が珈琲を淹れて持ってくる。家事、何でもできるんですってね。素晴らしいわと声をかけている。どうしてそんなことが分かるのか、と聞くと近所では評判だと聞かされた。
長年の確執は彼女、遠田基久子を呪縛されたかのように身動きできない状態に追い込んでいたのかもしれない。皐月の思いを利用し、赤川葉月に復讐するだけのつもりが皐月自身に心の傷を追わせてしまったようだと話す。
何故、皐月が実玖を襲うことに繋がるのか、分からないと言った。
「私が言ったんです。実玖さんがいなければ、皐月さんはもっと幸せに暮らせるって。もしかしたら莉玖さんは本当は皐月さんを好きなのかもしれない。でも実玖さんがいる限り、彼は手に入らないと」
基久子の憎しみも本当なら赤川義樹に向けるべきだったのに、親がお金を持っているというだけで捨てられたのかと思ったら葉月に向いてしまったという。そしてその血を受け継ぐ皐月を思い通りに操っているようで夢中になってしまったらしい。
「どうして、こんなに時間が経ってから訪ねてきたんですか」
あれから五年も経っている。莉玖の帰らない日々を数える実玖にその時間は決して短くないと思わせたのだろう。
彼女はもう関係のないことだと思っていましたと言った。でも、と続けた言葉は赤川家に対してではなく、実玖の負った疵が取り返しのつかないことで、責任は自分にあるという謝罪だった。
「直接、虐めろと言ったんですか」
「そんなことは言っていません。ただ実玖さんは苦労を知らないお嬢さんねと言い続けました」
最後に、誰も恨んではいませんよと実玖が言ったことで彼女の償うという気持ちを拒んだ形になった。実玖は本当に素晴らしい人間だと、誰にも真似のできないことを軽々とやってのける自慢の娘だと誇りに思う。
その夜、実玖が基久子のことを莉一に話していた。
人は弱いから誰かと一緒にいるのかもね。その言葉の裏に、今莉玖は誰かといるのだろうかという思いが潜んでいることに気付く。
それから二ヶ月、莉玖は帰ってきた。
台所にいた私たちに外での声など殆んど聞こえることはないのに、あの子は突然駆け出していった。何かと思って玄関に向かうと、そこには実玖を抱きしめる莉玖の姿があった。少し大人びて、でもどこかに小さな頃の面影を残して。
「ただいま、お母さん」
左腕に実玖を閉じ込めたまま、笑顔とケーキの箱を手渡してくれる。感極まって頷くしかできなかった郁代の代わりに、抱いていた汐莉が答えた。
「おにいちゃん、おかえりなさい」
と。
「初めまして、汐莉ちゃん」
「はじめてじゃないよ。みくちゃんがおしゃしん、いつもみせてくれるもん」
すると、あ、内緒だったと言ってしがみついてくる。
「内緒なんだ。だったら聞かなかったことにしよう」
莉玖のそんな言葉に汐莉が微笑む。
「寒いわ。早く入りましょう」
母の声がして初めてそこにいたことに気付く。
「お母さん、どうしたの?」
話は長くなるからと、莉一が先に玄関を抜ける。続いて母と、汐莉を抱く郁代が入り、二人は暫し戸外に留まった。
何かを話してる様子はない。ただこれまでの時間を埋めるように、それは静かに見つめ合う恋人同士の姿に映った――。
To be continued.