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『風雪』

第6章 義樹

 身体全体が、まるでぬかるみの中に在るような息苦しさと倦怠感があった。赤川義樹が耳を澄ますと、いつもはまるでしない何かの音が響く。
 いいな、誰かの気配。そうだ。義樹は明るくて楽しく過ごせる家庭を築きたいと思って結婚したんだ。どこで間違ってしまったんだろう。
 後から思えば、大学での最初の合コンで知り合った遠田基久子とそのまま結婚すればよかったのだろう。しかし誰ともつきあったことのなかった義樹は、もっと自分に合った女がいるんじゃないかと思ってしまった。合コンなどという場で知り合った女ですら、こんなに馬が合うのだ。もっと自分に相応しい女はいるんじゃないかと。
 女はそういう感情を敏感に察知する。気付けば基久子はいなくなっていた。

 その時の義樹の思いは軽かった。また次を探せばいいと、基久子自身のことなど知ろうともしなかった。
 周りが就活に勤しむ頃になると合コンも滅多に行われなくなり、父親の経営する会社に入社が決まっていた義樹はバイトに精を出していた。母親がいなかったためか、家庭に憧れた。自分の子供が早く欲しいと思い、まだ誰も結婚を考えないような在学中に将来を共にできることを条件に女を見るようになっていた。
 しかし、女ですらまだ遊びたいと思うような時期だ。思うような相手は現れず、結局一度も恋人とイベントを味わうことなく卒業する羽目に陥った。

 妻である葉月とは就職後、会社の取引先で出会った。一目見て、気に入られたのは義樹の方だった。
 あちらがよくてもこちらは駄目。でも会社という柵が生まれてしまうと、無下にすることはできない。そのうち周りから、一度くらいデートしてやれよという空気になってくる。仕方がないからと、映画を見に行ったのが最初だった。そして自分には合わないと思った。ずるずると期待させるのも悪いと思い、その場でタイプじゃないからと、これを最後にして欲しいと言った。それなのに、彼女は親の力を使って会いに来るようになった。
 仕事で来られていては、会わないわけにはいかない。そして取引先の専務から飯でも食ってこいと言われてしまったら断ることなどできなかった。

 おかしなものだと思う。大学生だった頃はどんなにデートをしていても、誰も結婚という言葉を出さない。義樹が結婚したいと言ってもみんなが笑っていたくらいだ。
 しかし社会に出ると、一気に雰囲気が変わる。責任を持ったつきあいを押し付けられる。何度も食事に行きながら、自分の好きなタイプとは違うからと断っているのに、葉月は知ってるから食事だけと言って笑っていた。
 流される、という言い方が世の中にはある。自分が正にこれだったのだろう。そして子供がすぐにできていれば、それなりに上手くやっていけたのかもしれない。しかし五年経っても子宝には恵まれず、そんな時、偶然基久子と再会した。
 過去に一度でも体の関係があると、そのハードルは低い。再会を祝う酒だけの筈が気付けばホテルでの密会に繋がっていく。帰りが遅くなり、嘘に嘘を重ね、友人を巻きこんでのアリバイ作りをし外泊もした。
 基久子に子供ができたのは、そんな頃だった。義樹の頭には離婚しかなかった。自分の子供が欲しかったのだ。
 いくら慰謝料を払ってもいいから別れようと思った。そして最初から、義父母を前に離婚の話と本気で付き合っている女性がいること、そして彼女が妊娠していることを告白した。

 葉月は泣くでもなく怒るでもなく、最初はじっと自分を凝視していた。義父が、お前はどうしたいと聞いても何も言わなかった。慰謝料のこととかは弁護士を通して話し合いをしたいと言ったところで、初めて葉月が口を開いた。
『離婚はしません。その女性に子供を産んでもらって。私が引き取って育てます』
 その言葉の衝撃は今でも忘れない。
 待ってくれと。浮気じゃない、本気で好きなんだと言った。それでも聞いてくれなかった。
 こうなると親の前で打ち明けたことが逆効果となり、基久子の素性も全て話さないわけにはいかなくなった。その場で彼女に連絡を入れ、義父が実家に来て欲しいと頼んでいた。

 まさか赤ん坊を取られるとは思ってもみない基久子は、ちゃんと話をしようと言いやって来た。
 頭のいい女だった。自分がどうすれば、周りが納得するのかを知っている女だった。派遣会社にいた彼女は出産までの面倒と住居としてのマンションを与えられ、その後一流企業への就職を確約した。自分の出る幕は一切なかった。
 二人きりでは逢わないと約束をさせられ、基久子は消えた。半年後、葉月が赤ん坊を抱いて帰ってきた――。

 暫くは葉月の実家近くで暮らしていたが、義母の勧めで受けた不妊治療で図らずも葉月との間に子供ができた。人口受精というわけだ。寝室は別でも妊娠することに驚いたが、自分がやったのは病院での精子提供だけだった。
 約二年離れている子供たちだが、早生まれになる皐月は養子にした基義とは一学年違いとなり慌ただしい数年があっという間に過ぎていった。

 皐月が小学校に上がった夏。
 義父が新しくできた住宅街に家を買ったからと資料を持ってきた。義父母は生さぬ仲の孫になる基義も、皐月と同じように可愛がってくれる。有難いと本気で思った。
 新築の家をみんなが気に入り、義樹も本来の夢であった家庭を持ったような気がしていた。子供の成長は楽しい。特に女の子は華があって、皐月が着飾る姿をカメラに収めては眺めていた。
 しかし、いつまでも子供のままでいてくれるわけじゃない。子供は育つのだ。気付けば基義とは話をしない父子になっていた。義父母は思春期という言葉で片付けたが、焦れば焦るほど親子の距離は離れていくようだった。

 基義が、葉月の本当の子供でないと知ったのはいつだったのだろう。全然見たこともない女性がやってきて、基義の出生を尋ねられたことがある。基久子が相談でもしていたのだろうかと思った自分は、家ではできない話だと外に出た。近くの喫茶店で話を終えた時、背後に気配を感じた。振り返ると基義の視線があった。
『あの人が俺の本当の母親?』
 その問いには答えられなかった。その様子からは初めて知ったという驚きがないことに、自分の方が狼狽えてしまったのだ。基義自身がどう判断をしたのか、何の返事も聞かないまま彼は出ていった。その後は針の莚に座らされているような暮らしに変わった。

 あれは何がきっかけだったのか。
 基義の名前は、自分の名前と実母である基久子から一文字ずつとってつけられた。それは義父が飲んだ条件の一つであり、生まれてから誰もそれに触れることはない。なのに突然、葉月が騒ぎ出した。
 葉月は基久子には会っていない。全て義父母が相手をしたから。いつだったか、偶然ゴミ置き場で会った矢谷さんの奥さんが妊娠したと言う。高校生の子供たちと随分離れてしまうから恥ずかしいと話していた。それだけだ。
 何を思ったのか。葉月は基義の母親を彼女だと思い込むようになった。不倫は今も続いていて、葉月を裏切り続けていると。

 そっか。
 それで刺されたんだ。
 義樹の目が真っ白な病室の天井を、初めて認識した。
To be continued.

著作:紫草



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