『祭囃子』

第二章「秋祭り」

1

「おおおっとぉ!!!」

 その瞬間、俺は頭からアイスコーヒーをかぶった──。
(勘弁しろよ〜)

「悪い、悪い」
 その女は俺の顔を見ることなく、そう云って立ち去ろうとする。
「ちょっと待てよ」
 思わず腕を掴んでいた。

 某喫茶店のウェイトレス。客にアイスコーヒーぶっかけといて、そりゃないだろう。
 俺が席を立ちそのウェイトレスの腕を掴んだ時、奥から店長と名乗る男が文字通り飛んできた──。

 何だか、嫌な一日だった。
 たいした服を着ているわけじゃないし、クリーニング代が欲しかったわけでもない。ホットじゃなかったから火傷を負ったわけでもないし、ただ人にコーヒーぶっかけたら普通「ごめんなさい」だろ。それだけでよかったのに‥。
 無理矢理渡された一万円。
 全くどうするんだよ。この金‥。
 はぁ〜
 気が重い。仕方ない。明日返しに行ってくるか。
 またあの女がいたらどうするよ、俺?!

 ふと、夕子からの日々届く葉書に目が留まる。
「分かったよ。笑えばいいんだろ、笑えば」
 思わず口をついてでた。
 はぁ〜
 再び大きな溜息をつき机に突っ伏した。
(夕子。幻聴でも聞こえてきそうだよ)
 ほんの少し弱気になった自分にも、少しだけ笑ってやった。

「光君。ほれ、回覧板ね」
 翌朝早く勝手口から顔を出し、隣のおばちゃん(おばあちゃん?!)が届けてくれる。
「それと、これと、これと、これ。後これも。若いんやし、ちゃんと食べなあかんよ」
 見ると、京野菜がどっちゃり。
「おばちゃん、こんなに食べられないよ」
「おばんざい、覚えたらええ。教えてあげるしな。簡単や」
 簡単…て、それこそ簡単に云うてくれるな〜。こっちは初心者やぞ。勘弁してくれ。

 俺〜村崎光の選んだ部屋は“昔の家屋をそのまま残そうキャンペーン”というものの一環で、家賃がべら棒に安い代わりに古い。何せこのご時世に月二万。
 その代わり隙間風って言葉は間違いだというくらい風が家の中を吹き過ぎて、砂が溜まることもしょっちゅうだ。あと、雨戸とか玄関とか大家の許可がないとアルミサッシとかは入れられない。その雨戸もなかなか動かないし(コツが要るんだ。習得済みさ)最初に案内された時は裸電球四十W一個のみ。驚きを通り越して俺は笑ってしまったっけ。勿論今はちゃんと蛍光灯がついてはいるが当然小さくて暗い。だから家の台所には釜戸があるし(それも現役だ)トイレもつい先頃水洗になったばかり。これだって行政の都合であり、これがなければ今も汲み取り式だったろう。
 一事が万事こんな調子。ひとつずつ挙げていると切りがない。
 大家さんは七十を越えたおばあちゃん。大家さんを“おばあちゃん”と呼ぶので、六十五を越えた隣人は“オバちゃん”と呼ぶ羽目になってしまったのだ。
 旦那さんと二人でずっと暮らした家をどうしても手離す気になれず、数年は独り暮らしをしていたと云うが昨年息子さんの許へ行くことにしたらしい。その時息子さんがこのキャンペーンを知り登録したのだという。
 今でも月に一度はやってきて、旦那さんの大好きだったという部屋でお茶を飲んでゆく。おばあちゃんって存在をそれまで全く知らなかったから最初は戸惑ったけれど、今じゃすっかり“ばあちゃん子”さ。
 こっちに知り合いのいなかった俺は、この隣近所の付き合いや大家のおばあちゃんが世話をしてくれるのも嬉しかった。学友に云わせると俺は大莫迦者らしいが、一人位こんな奴がいてもいいだろう。
 元々そういう環境で育ったからかな。掃除をしてくれるって部屋に上がられてもそんなに気にならないし、逆に力仕事を手伝いに行ったりするのは頼りにされているみたいで気分がいい。お互い様ってヤツだ。
 それに俺の家はいい方で、エアコンも付いてるし(一台だけだが)TVアンテナも立っていた。電話線もきてたし余程のことがない限り費用をこちらで持てば好きに使っていいと云われた。ただ面白いもので、以前は家にいる間中つきっぱなしになっていたTVも殆ど見ないからと切るようになった。代わりにおばあちゃん達と近所へ買い物に行ったり、公園で近所の子供たちと遊んだりしている。
 越してきてまだ四ヶ月。今じゃ、町内で俺を知らない人間は殆どいないだろう。
 間もなく夏休み。漸く来られると夕子が喜んでいる。俺はその前に最初の前期試験だ‥。

著作:紫草

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