『祭囃子』

第二章「秋祭り」

5

「母は、心を病んでいる人でした。父とは再婚同士で、私を産んでからも父に怯えるように暮らさはった。家は京では大したことあらへんのですが、他に移らはった親戚からは今も旧家として扱われます。細かいし煩いし、そんな中で母は疲れてしまいはったのでしょう。私が幼稚園に行く頃から少しずつおかしくなっていきました。そして私が小学校二年の夏休みを終えると、母は入院しました。奈良にある精神病院でした」

 語る宮子に涙はない。代わりのように夕子が泣いていた。静かな涙だ。

「宮子さんは最初から、その事を教えられたの?」
「はい。私が付き添って入院しましたから」
 その時、夕子が宮子を抱き締めた。やがて、驚く宮子の瞳にも涙が滲み始める。
「何て重い枷を背負って生まれてきたのかしら。自由で楽しい盛りの頃を宮子さんは奪われてしまったのね」
 抱き合いながら、何時しか二人で泣き続けている。
 こういう時、男が泣いたら様にならない。そう教えられた。だから泣かない。何があっても俺は泣かない。
「おば様、ありがとうございます。私、女の人にこんな風に抱き締められたの初めてです。とっても、あったかい」
 恐る恐る俺は宮子に声を掛ける。
「宮子。俺は何も知らなくて‥」
 しかし、言葉が続かない。
「光が悪いんじゃない。私が…何も云えなくて逃げ出した。ごめんなさい」
 そう云って、宮子は再び夕子の胸に顔を埋めて泣いた──。
 その涙を見て、何だか救われたような気分になった。少なくとも何か理由はあったのだ、ということが気持ちを楽にしてくれた。
 それに宮子は負けず嫌いだ。こんなに無防備に泣く姿を俺は知らない。
「宮子」
 今度こそ、しっかりと声を出す。
「何?」
 宮子も夕子から離れ、こちらを向いた。
「宮子のお母さんが亡くなったのは分かった。お母さんの状態も、きっと、もっと壮絶なものがあったんだろう。でも、それで俺の前から姿を消す理由にはならないよ」
 そう云った俺の顔を、宮子はそれこそ穴のあく程眺めていた。
「そうやね。私も母が亡くなったと聞いただけなら、光の前から消えたりしいひんかったやろね。母ね、自殺やったの。何故だか分からへんけど、いきなり」
 その時、突然、夕子が話に割って入った。
「ちょっと待って。その手の病院って、なかなか実行出来ない筈よね。もし嫌でなければ教えてもらえる? どんな方法で」
 今度は夕子が身を乗り出した。
「実は亡くなる数日前、外出したらしいんです。その時に万引きでもしたんでしょうね。カッターナイフで首を切りました。一面を血の海にして“ごめんなさい。許して”と云ったんを隣のベッドの人が聞いてはります」
「外出は誰かに付き添われて?」
「いいえ。要するに脱走です」
 宮子は呆れたというように顔を歪ませる。
「よく捕まえたわね」
「父が、見つけました」
「お父様!?」
「はい。ただ何処にいたのと聞いても決して教えてはくれませんでしたけど」
 夕子は、とりあえず納得したようだった。
「ごめんなさいね、話の腰を折ってしまって。本題に戻って」
 宮子は改めて俺の方を向くと、どこまで話したかの確認をする。自殺をされたところまでだよと云うと、二度三度頷き話を再開した。
「私が病院に着いた時、母はすでに霊安室に移された後でした。そこには父が一人いるだけで、私は母の死に際し流す涙すら我慢をしてしまいました。その時、葬儀の支度があるやろから帰ったらと父に伝えると葬儀はしないと。遺体も引き取らず大学病院に寄付すると云わはりました。私は言葉を失のうて、何て残酷なことするのやろとそう思いました。どんなに気が触れてしまったとしても、死んでしまえば母は帰ってくると信じていましたから。本当は叫びたかった。どうしてお葬式を挙げてくれへんのか、お墓に入れてくれへんのか、でも長年の確執がそれを許さへんかった。私は黙っている事しか出来ませんでした」
 余りの話の展開に、どう相槌を打っても嘘っぽくなってしまうし内容がどんどん悲惨になってしまって、俺たちは黙って聞いているしかなかった。
 やがて話が一段落ついたのか、宮子が大きく溜息をつく。
 俺は怒りに任せて、言葉を掛ける。
「ひどい話だ。人間のすることじゃない。いくら宮子のお父さんだと分かっていても、簡単に納得できるもんじゃない」
「光。落ち着きなさい。今は話を聞いてあげるの。彼女の気持ちを考えなさい」
 夕子は、そう云って俺に缶コーヒーを差し出した。
「夕子」
 見ると、夕子は黙って小さく頷いた。
「悪かった。ごめん」
 すると、
「いいの」
 と宮子が間に入る。
「光がそう云ってくれて嬉しい。誰もそんな風に云ってくれへんかったから。そやけど、これで逃げたと違う。その後、父に告げられたことが私には耐えられへんかった。私は」
 少し呼吸を整えて、
「私は、父の子ではなかった」
「えっ?」
「母が父以外の男性と浮気をして、そして私が生まれた」
 奥歯をかみ締めたのが分かった。宮子の瞳から涙が一筋流れた──。

著作:紫草

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