『祭囃子』

第一章「冬祭り」

3

「夕子、ちょっと手を貸してくれる?」
 台所に立っていた私は声のする方へ振り向いた。見るとマネキンに布地を当て困っている光人がいる。
「今、行く」
 私は濡れた手を拭きながら、彼の許へと急いだ。
「悪いな。待ち針が無くなっちゃった。そこの裁縫箱から新しいの出して」
 確かに、手首に着けている針山から待ち針だけが無くなっている。裁縫箱からは新品の待ち針の袋が二袋見つかった。
 私はその一つを破り、彼の手首の針山に刺していく。
「何だか、光人の腕に針を刺してるみたいだわ」
「気になる?」
「あんまり、いい気分じゃない」
「そ。じゃ喧嘩した時には忘れずに出しておくことにしようっと」
 彼は、そう云うとパチッとウィンクする。
「どういう意味!?」
「まあ、そういう意味」
「ヒドい!」
 と一歩前に出ようとすると、
「わ!止めろ。服が壊れる」
 倒れそうになっているマネキンに、光人が必死の形相で抱きついている。
「あ。ごめんなさい」
「いや、僕も悪かった」
 二人でマネキンを直し、
「じゃ、もういいかな?!」
「うん。有難う」
 そう云うと、彼は再び服の仕上げに取り掛かっている。明るいグレーの生地を襟元に重ねて縫いつけるのだ。何時しかその手には鉛筆を持つことより針を持つことの方が多くなっていた。

 その後の光人は週一回の通院が義務付けられてはいたものの、それでも私たちは仲良く暮らしていた。
 暫くして彼は近所にあるオーダーメイドの服屋でアルバイトを始め、そこの店主に譲ってもらったマネキンを持ち帰り、
「デザインの勉強に使うのに便利だから」
 と居間の奥に置き、切れ端を併せては色々な勉強をしていた。
 しかし人間何が幸いするか、分からないものだ。
 紳士服一本の仕事に限界を感じた店主が、光人に婦人服のデザインと縫製を任せたのだ。元々デザイナーになる為の勉強をしていた光人だ。客の注文に合わせパターンを作ることなど造作もないことだった。瞬く間に客がつき、店主からこのまま就職してほしいと懇願されるようになっていった。
 当初は入院費を返す為に始めたバイトだったと云う。まさか本気で返すつもりだったのか、と私の方が驚いてしまったが、結局数ヶ月で返済完了となった。
 そして、それが一生の仕事になりそうだと云って光人は笑う。
「デザインの方はいいの?」
「これだって立派なデザインだよ。学校はちゃんと卒業するつもりだしね。近所の人たち専属ってのも楽しいものだろう」
「そうね。光人がいいと思うなら私は何も云わない」
 この時、いよいよ出て行く日が来たのだと感じていた。
 この先、光人には新しい道が広がった。どんな理由であれ、同じ家に留まる理由にはならないとそう思った。そう自分に言い聞かせている時だった。
「ね、結婚しよ」
 目一杯驚いた私の目に飛び込んだ、光人の瞳は相変わらず綺麗だった。
「いつまでも一緒にいよう。今、心静かに共に暮らせるのは、きっと夕子だけだ」
 私は黙って頷いた。そんな事、出来っこないと知りながらそれでも何度も頷いた。そんな私を抱き寄せ、光人は、
「やっぱり、そうやって泣くんだね。もうそろそろ声を出して泣けよ。ちゃんと支えてやるから」
 と。
 その日から私たちは夫婦として暮らし始めた──。

 出逢った日から約一年半、彼は再び入院することになった。
 病院へ向かう途中の街路樹は、すっかり葉が落ちていて、
「寒そうだな」
 と見上げながら光人が云う。
 師走の喧騒は、病院の近くにも現れていた。
 正月支度をする町は何だか落ち着かない、と襟元を合わせる。私は掛ける言葉を見つけられず、組んだ腕にしがみ付くように一歩一歩進んでいく。時が止まればいい、と本気で思っていた‥。

著作:紫草

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