『指環綺譚』

生い立ち

 日々の暮らしの中で、私は愛の生い立ちを聞かされた。愛は、何とも可哀想な宿命を背負った娘だった。

 愛の父は、彼女が僅か十歳の時に交通事故で亡くなられ、犯人は未だ捕まってはいないと云う。おばあは、息子の死のショックを愛を育てていくことで癒していた。
 というのも、愛の母親は、彼女を産んですぐに失踪してしまっているというのだ。
「生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からない」
 と二人は云う。母親の不在は愛の胸中に不穏な影を落としたが、それでも彼女は素直で優しい娘に育っていった。
 元々おばあの引いていた屋台を愛が引くようになったのは、中学に上がった頃からだという。
「昼間は学校に行って、夜は皿洗いでしょ。あの頃は毎日が眠くって大変だった。今の方がすっごく楽させてもらってる」
 愛はそう云って笑った。

 私は彼女の生い立ちを思うと、自身のそれが原因で家出をしているとは、とても云えなくなってしまった。
 そうだ。
 私も、自らの生い立ちから両親と上手くいかなくなり、挙げ句家を飛び出すことになったのだった──。

 私の母は若くして嫁ぎ、すぐに私を産んだ。
 しかし、母は若過ぎたのだろう。
「精神的なショックもあった」
 と云っていた。
 いちお旧家と云われる家で、全てを仕切る姑に家を顧みない夫、そして子育て。
「見合い結婚では夫との愛もなく、せめて実家で出産することが出来ていたら、あんなことにはならなかった」
 と云う。
 母は私を産んですぐにノイローゼになってしまい、約一年、愛の母親同様失踪していたのである。私の母はやがて戻ってきたが、愛の母は、それきり消息を絶ったままだという。
 母の失踪していた一年は、綾辻家の恥ということで病気療養とされ、結果的には、このことで母は家の中でとても大事にされるようになったらしい。無駄な一年ではなかったということだ。

 私は高校三年の夏、その年の春から寝付いて夏に逝った祖母からこの話を聞かされた。
 そして母は、あっさりと云ったのだ。
「綾辻の家を離れた一年に、私は本当の恋をしていた」
 私は驚いた。
「では父は。父さんのことをどう思っているのですか?」
「あの人は夫です。それ以上でも以下でもない。私の愛は別の処にあるのですから」

 その一年後、私は家族の意味を見失い全てを放棄して、特に見習ったわけではないが母と同じように家を出た──。

 愛の父は何処で彼女の母親を見つけてきたのだろう。おばあの話では、私の時同様ある日突然連れてきたという。
 その後、二ヶ月程たって一緒になるという話が出たらしいが、その人は記憶を失くしていた。その二人の間に子供が出来た。
 しかし、月満ちて産まれた子に“愛”と名づけて女は消えた。まるで愛を産む為だけにやってきたような名前さえも分からぬ女は、一枚の写真も残すことはなかった。
 ただ一つ、愛の持っていたあの龍のリングを除いて。


著作:紫草

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