続編「誰が降らせた、その雪を」

『そして静かに、雪は降り積む』2

V
 自分の人生に幸せを求めることは、とうに諦めていた。ただ父に命じられるように日々を送るだけ。
 でも今度の相手は、どんなに年齢が離れていようと父の友人ではなかったのか。絶望という言葉は全てを忘れるほどの衝撃を沙柚に与え、彼女はただその家から離れることだけを選択し、そしてそこに辿り着いた――。

 よく見なければ、扉があることにも気付かれない電柱の影になっているお店の前。
 たぶんスナックなんだろうと予想はつく。気温の低下と共に冷えてきた体を温めたいと思っても、バッグ一つ持たずに飛び出した沙柚には、その店に入るお金がなかった。
 現金でもカードでも、好きなだけ使えばいいと、手紙と一緒に置いてあった現金は五百万。あのお金を一束でも持ってくれば、何処かで休むことができたのだろうか。
 否、きっと使うことはできなかっただろう。
 婚姻届は誰かによって書かれ、自署したものを渡したのが三日前。たぶん、その日に父は夫となる友だちから結納という形での現金を受け取ったのだろう。そして沙柚には、自宅だというメモが渡された。

 このまま、ここで一晩立ち尽くしていたら凍死するだろうか。
 そんなことを考えていた時だった。
 突然、目の前に立ちはだかった男の姿が在った。反射的に背を向けようと思ったが、余りの寒さに体はいうことをきいてはくれず、沙柚は男に手を引かれ、彼は沙柚を目の前の店に連れて行こうとした、のだろう。ただ彼女の体は氷のように冷たく、その足はもう一歩も動くことを許してはくれなかった。
 男は、軽々と沙柚の体を抱き上げ、結局店の中へと入ってゆくことになった――。
W
 カウンターの一つに下ろされた時、店の中の暖かさが、沙柚の凍った心まで解かしてくれるようだった。
「いらっしゃい」
 カウンターの中にいたバーテンダーは、ただ普通のお客さんに言うようにそう言っただけで、隣に座った沙柚を連れてきた男も何を言うわけでもなかった。
「ホットウィスキーを」
 それだけ言うのも声が震えてしまった。
 でも二人は何も言わなかった。
 グラスを傾けながら、ゆっくりと時が刻まれてゆく。
 沙柚に、人並みの優しさが戻ってくる。体の芯で暖かい気持ちがゆらりと揺れる。
 この後、あの誰もいない暗く寒い家へ帰るのだと、漸く決心できた瞬間だった――。

 再び、あの店に辿り着ける自信はなかった。
 あの婚姻届を出した日から一ヶ月以上が経っていた。
 通いの家政婦が何もかもをやってくれるので、沙柚は家にいても何もすることがない。ならば、と大学へ行きたいと言ってみたが断わられた。余計なことは一切するなと、やっぱり弁護士の書面が届いた。
 そんな時、ふと、あの店を思い出した。
 あの日、沙柚たちは三人で夜を明かした。殆んど何を話すこともなく、静かなイブだった。
 あの夜、人の温もりを近くに感じていられたことで、沙柚は一人きりの結婚生活を耐えることができたようなものだ。
 家政婦の名前も知らない。誰も訪れない。静まりかえった家のなかで、沙柚は毎日同じことを繰り返しながら暮らしていた。
 そんな時だった。
 彼らのいたあの店は、いったい何処にあったのだろうと。
 歩いた距離は憶えていない。道も知らない。
 でも、行きたかった。もう一度、あの人たちに会いたかった。同じ静かな空間でも、全く違ったあの店のあの空間に戻りたかった。
 沙柚は、あの店を探してみようと結婚したあと、初めて自ら家を出た――。
X
 地図もない場所に再び廻りあえたのは、目に見えない特別な力のお蔭かもしれないと沙柚は思った。
 見れば、ちゃんとお店の名前も書いてあった。
『Kaicoh〜邂逅〜』
 何となく自分にピッタリではないかと笑ってしまった。
 暫し、お店の前で木製のその看板を見ていると、声を掛けられた。
「久し振り。今夜は俺も、静かに飲みたくてさ」
 そう言ったのは、あの日、沙柚を抱き上げて店に運んでくれた男だった。
「あの、あの日はありがとうございました。私、原口… いえ、土岐沙柚です」
「ん? 知ってるよ」
 彼はそう言って店の中へと入ってしまう。慌てて後を追うように、店に入るとまた同じ席に座った。
「あの、どうして私の名前を知ってるんですか」
「知らなきゃ、話できないでしょ。自分で沙柚って名乗ったよ。忘れたの?」

 忘れていた。
 楽しかったという思いしか、憶えていなかった。
「その様子だと、俺の名前も忘れたって感じ?」
 沙柚は情けない顔をしながら、黙って頷く。
「な・ぎ。俺は、沢田凪」
 そう言いながら、彼は出されたグラスを差し出してきた。沙柚も頼まないうちに出ていたグラスを手に取り、彼のグラスにそれを傾けた――。
 彼のグラスの向こうに、沙柚の立っていた電柱が見えた。
 ここから見ていたのかと、改めて初めて会った時のことを思う。

「雪ですね」
 そんなことを思い出していた時、マスターが声をかけてきた。
(雪?)
「今夜は静かでしょうね。雪が降る夜は、街が静かになりますから」
 マスターの言葉も、その声音とともに静かに聞こえてくる。窓を通して外を眺めると、確かに雪は深々と降り続いている。
「今夜も、また貸切か?」
 ちょっとだけ、ふざけたように沢田凪と名乗った彼が言った。そういえば、あの日の夜も誰も入って来なかったような気がする。
 雪は、まだ降っている。
「沙柚。寒いのは嫌いでも雪は好きなんだっけ」
 驚く沙柚にウィンクを送り、彼はグラスを飲み干した。雪は、このまま静かに降り積んでゆくようだ。
 沙柚は、沢田凪という男に関心を示している自分自身を自覚した――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 1月分小題【初見参】

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