「誰が降らせた、その雪を」
「そして静かに、雪は降り積む」
続編

『終わりない、旅』1

T
 逃げ出されたのは、自分。
 それも完全に消息を絶たれて、初めて気付くという醜態ぶり。

 彼女が何を考え、何をしたかったのか。
 その心の底を、一度でも真正面から知ろうと思ったことがあったろうか。
 何もかも分かったような顔をして、つき合っていたということか。
 否、つき合っているというのも間違いかもしれない。
 気が向いた時、時間ができた時、誰とも約束のない時、ただ飲もうとメールをするだけ。沙柚が断わってくることは、一度もなかった。
 沢田凪は、もう数えきれなくなった溜め息をつき、グラスに残っていたビールを飲み干した。
 行き着けのお店。沙柚と出逢った店先。思い出の多過ぎる店には、足が遠のくかと思った。
 でも、それは逆だった。
 沙柚の話をしたい時、沙柚を知る共通の友人はマスターしかいなかった。凪は以前にも増して、足繁くマスターの店に通うようになった。

 土岐、否、離婚をしたと言っていたから今もそう名乗ってる保証はないか。沙柚は旧姓も嫌っていたから、果たして旧姓に戻ったかどうか。それも分からない。
 それは結果的に、今の名を知らないということになる。
 沙柚と会えなくなって、三年が経った。
 結婚もしていない。恋人もいない。何も変わらない生活の中で、沙柚の記憶だけが鮮やかに残っていた。

 少し北の地方へ仕事に来た。
 寒いところは苦手だと言うと、沙柚は、南よりも北の方が似合うと言っていた。海が好きだというと、稜線を背負う方が似合うとも言っていた。
 何故、そんなことを言ったのだろう。
 北国の冬は、今にも雪が落ちてきそうで、そうすると別れた朝を思い出すから嫌いになった。
 早目に打ち合わせを済ませ帰ろうと歩いていると、ベビーカーを押す女性の後ろ姿が目に入った。
 その姿は、ちょうど沙柚の背格好のようだった。

 ふと、彼女は結婚したんだろうかと思った。
 もし実家に戻ったとしたら、また何処かへ嫁いだかもしれない。彼女は父親の持ってくる話を断わることがないと話していた。
 今思えば、何故断わらなかったのだろう。
 子供の頃ならいざ知らず、大人になったのなら、自分の意思で結婚を拒否することができた筈だ。
 そんなことも聞くことはなかった。
 聞いてはいけないような気がしていた、というのは言い訳だろう。
 結婚しているのかという確認すら、最後の夜までしなかった。

 その時だった。
 愚図り始めた赤ん坊をあやす為に、彼女はベビーカーを止め赤ん坊の方へ回りしゃがみこんだ。

 体に電流が走ったようだった。
「沙柚」
 赤ん坊を抱きあげた女性に向かい、凪は声をかけた。
U
「凪」
 彼女の呼ぶ声は、別れた朝と何も変わらず心地良く凪の名を呼んだ。
 ところがその時、赤ん坊が泣き出してしまい、彼女は頭を下げ歩き出した。赤ん坊を抱いたままベビーカーを押し、暫く歩き、そして一軒の家の前で止まった。
 彼女はベビーカーをその場に残すと、家の中へと消えた。
 凪は思わず駈け寄り表札を見ると、その名は土岐でも原口でもなく全く別の名前になっている――。

 結婚したのだろうか。
 沙柚の子供だろうか。
 すれ違う人に見られながらも、凪はその場を離れられずにいた。
 今度は誤魔化したりしない。
 本当のことを聞いて帰ろう。もし、あの赤ん坊が沙柚の子供でも黙って受け入れる。
 どんな結婚をしていても、もう逃げることも逃げられることもしない。

 一時間以上が経った頃、沙柚が玄関から現れた。
「凪」
 塀に背を寄せ、人の目を避ける為に下を向いていた。だから一瞬、沙柚の声だと分からなかった。
「久し振りだね」
 その言葉に慌てて顔をあげると、ベビーカーを片付ける為に出てきた沙柚が微笑んでいた。
 その表情を見てしまうと、凪は言葉が出てこない。いつも、そうだった。
 ふんわりと優しく微笑む沙柚に、癒されていた。
 でも実際の沙柚は、苦しい日々を送っていたんだ。

「沙柚。結婚したのか」
 単刀直入に聞いた。
 今更、時候の挨拶など必要ないだろう。
「した、と言えば凪はどうするの」

 まただ。
 こうして聞く側から、聞かれる側へと入れ替えられる。
 以前は何も気付かなかった。自分が何も教えられていないことに気付いたのは、沙柚が消えた後だった。
 それは何故か。
 今のように、知らないうちに質問を質問で返され聞こうと思ったことを何ひとつ聞いていなかったからだ。
 でも今は違う。改めて、聞いた。
「沙柚は結婚したの? あの赤ん坊は沙柚の子供なのか」
 沙柚は微笑んだ。
 幸せそうに。
 でも、この笑顔の裏にあるものは分からない。
「ちゃんと答えろ」
 凪は、初めて大きな声で沙柚を問い詰めた――。

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著作:紫草

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