『声』

 さすがに夜も更けてくると、あの圧迫されるような暑さからは解放されるようになった。
 終電には、まだ少し本数のある山手線。
 それでもがらがらの車内にあって、いつも決まったように同じ場所に座る。
 すると、いつもにはない座席に違和感。古い車両である。少し位の固さの歪みには慣れっこだった。
 しかし、そのいつもとは違う感覚に戸惑った。座席の奥に手を入れると、そこには黒い携帯が一台、隙間に挟み込まれるように落ちていた。
 少し力を入れて引き抜くと、黒一色の携帯。男物かと思いつつストラップは女性物のようにも見える。降りる時に車掌にでも渡しておけばいいだろうと思っていたら、その携帯が鳴り出した。
 液晶には『公衆電話』の文字。
 もしかしたら本人か、と出ることにした。

――もしもし、拾って戴いてありがとうございます。それ、私の携帯です。今、どちらですか。

 切られることを恐れたのか。その電話は一方的にそこまでを話した。
 焦っているとはいえ、落ち着いた女性の声だった。
「山手線内ですよ。そちらは今、どちらですか」
 どうして、こんなことを聞いたのか。
 預けておくからと一言、それだけでよかった筈なのに。結局、彼女が今いるという赤羽のホームへ回ることにして携帯を切った。
 会わない方が夢を見てられたかもしれないのにな。ちょっと好みの声。
 そんな思いが一瞬、脳裏を掠めた。
 二駅先で京浜東北線に乗り換えて、赤羽へ向かう。
(黒いスーツ。赤い紙袋。あとは私が探します)
 そう言われて、切られた携帯をもう一度見る。
 真っ黒のビジネスタイプ。ストラップがCODEでなければ、絶対男のものだと思っただろう。
 電車が赤羽に到着し、降車する。その時には目の前に、たぶんこの女だと思われる女性が頭を下げていた。

 彼女の提案で電車賃代わりにと食事をして、気があったからと携帯の番号とアドレスの交換もした。
 ただ一度もメールをしたことなどないし電話をかけたこともない。それは彼女も同じ。彼女からの連絡は一度もないまま、一年以上が経っただろうか。
 それは偶然という名で訪れた。仕事先の社長秘書として働く彼女に再会したのだった。
 再会じゃないか。こちらの会社では近付くこともできない場所で彼女は仕事をしていた。
 これで終わると思った。そのくらい彼女の働く会社は大きく、その社長秘書などという肩書きは自分とは遠い世界の人間のように思われたからだ。
 ところが、その夜、彼女から初めてのメールが入った。
『今日は失礼しました。仕事中だったので、声をかけることができませんでした』
 内容らしいものではないメールに、返信は出さなかった。

 ところが面白いもので、このことがきっかけとなり、メールの交換が始まった。返信はあったりなかったり。それはお互い様だった。愚痴でもなく、かと言って仕事に関することでもなく、何のメールだと改めて思うと考えてしまうようなメールが続く。
 それでも電話をすることはなく、時は流れていった。

 その夜は電車で少し足を伸ばして、月に二〜三度は顔を出す串揚げの店にいた。
 すると携帯が震え出す。誰だろうと液晶を見ると、信じられないことにそこには、“白崎”の文字。彼女だった。
 まさか、と思いつつ、また何処かに携帯を落としでもしたのかと出てみた。
――左斜め後ろの、テーブル席。
 それは紛れもなく彼女の声で、慌てて振り返る。
 そこには携帯を握り締めたまま、左手をひらひらと揺らす彼女の姿があった。
 席を移り一緒に串揚げを食べて、冷酒を飲んで、いい気分で店を出た。まだ早いからと送るという言葉を断わられ、確かに九時じゃ残業帰りのサラリーマンも大勢いるだろうとそれぞれのメトロへ向かって歩き出した。
 ふと胸騒ぎがして、足を止めた。
 いつになく上機嫌に話した彼女は、本当に言いたいことが言えたのだろうかと。そして振り返る
 先に歩き出した筈の彼女の姿が、まだ、そこに止(とど)まっていた。

 大人同士の付き合いだ。理由も聞かないし、必要もない。
 ホテルに行って、早朝別れた。
 もう二度と連絡はないかもしれないと思いながら数日を過ごし、再びメールが届いた時に思い知った。
 待っているのは自分の方だと――。

 携帯は便利だ。
 何処にいても連絡はつくし、メールを送ってさえおけば伝えたいことも必ず伝わる。
 ただし、それは互いの暗黙の了解の中の話だ。
 アドレスを変えられたら、番号を変えられたら、それの連絡が来なかったら、全ての情報は途絶える。
 否、途絶えるんじゃない。自分のことを追うなという意思表示だ。

 仕事中だということは分かっていたが、電話をした。当然、留守番サービスに変わるものと思っていたら珍しく本人が出た。
「お前さ。男全部切って、俺とちゃんと付き合ってくれない?」
 無言のままだった彼女を、電話のなかに残し自分から携帯を閉じた。
 当日。翌日。一週間。
 仕事に追われるとはいえ、待つというのは辛い時間だと初めて知った。過去に待っていると何度聞いただろう。その女たちに少しだけ謝罪する。
 再び週末がやってくる。
 あれから季節が一巡りしてしまったと、改めて想い募らせ夜を過ごした。

 翌朝。
 まだ夜も開けきらぬ時間に携帯が鳴った。
 少しだけ酒の残った頭で、携帯の居場所を探し、寝惚け眼で通話ボタンを押す。

――男を全部切ったら、何処にも行く処がなくなってしまったの。

 一言も言葉の出ないまま、携帯だけを耳に当て部屋を飛び出した。
「お前…」
「ここに置いてくれないと、私はこの週末に部屋探しをしなければならないんですけれど」
 携帯の奥からと、実際の声とがステレオ放送のように響いた。
 何かを考えるよりも先に彼女を抱き締めていた。
「えっと…」
 大きめのスーツケースを一つだけ持った彼女を抱きながら、まだ働かない頭で必死に考える。
 彼女も携帯を切らないまま、クスクスと笑っている。その声が携帯から聞こえてくると不思議な感じがする。
「そうだ、同棲しよ。あ、違う。結婚しよう」
 正に前代未聞の話だが、この時の科白を録音されてしまったらしい。
 携帯というやつは、あれもこれも色々なことができてしまって、使いこなせない人間からすれば厄介なことこの上ない。
 更に、この数年後。
 身内で開いた結婚披露のパーティで、この時のテープが流された時の自分の驚きと羞恥は誰にも分かろう筈がない。
 でも、どんなことをされても文句は言えないな。あの携帯電話が繋いでくれた、ほんの微かな縁の先に彼女との出逢いがあったんだから。
 そして彼女の声を聞くことがなかったら、きっと今の自分はないだろう。

 電話。
 昔、自宅の中に登場した時は電話室という場所まで作られたところから始まって、携帯という小さなものにまで進化した。
 それでも、きっと何処かで誰かはその電話に助けられ、そして感謝しているのだと思わずにはいられない。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 9月分小題【声】
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