『凪』

 彼女…
 別墅凪はもう、ここへは来ない――

 柊木蒼は習慣となってしまった、凪と出逢った浜辺へと足を向けていた。
 彼女の兄だという亮一朗に連れられ、再会を果たし、そして別れた。否、何の約束もしなかったという方が正しいかもしれない。
 そこで彼女が入院をする身であり、此処は簡単に来られる距離でないことも知った。それでも自然、海へと足は向く。
 彼女に逢う為ではなく、彼女の代わりに海を見てあげたいと思ったのかもしれない。
 特別、何かを考えたわけじゃない。ただ彼女に繋がる此処へ、ただ来たいと思ったのかもしれない。
 今ではその理由も、言い訳のようにしか思えない。

 初めて彼女に遇った時、海はまだ夏が終わったばかり。今は、すっかり冬の色をしている。
「もう幽霊の話題は似合わないな」
 何気なく呟いた言葉に、ない筈の返事があった。
「お前、どうして此処に来てんの」

 声のした方に振り返ると、そこには亮一朗が立っていた。
「久しぶり」
 彼に会ったのは、凪の病院へ連れていってもらった時以来だ。つまり彼女と逢ったのも、かれこれ一月以上前になる。
「そんな挨拶してないだろ。凪は来ないのに、どうして来てるんだって聞いたの。もしかして、あれからもずっと来てたのか」
「何となく習慣になっちゃったみたいで」
 そう言って笑ってみたが、亮一朗を誤魔化せたとは思えない。
 だが彼は、それ以上何も聞いてはこなかった。何故ならそれよりも、もっと大事な話をするために、この海へやって来ていたのだから。

「凪が、蒼に逢いたいって」

 その言葉で、すぐに二人は病院へ向かった。その言葉は、彼女の最期が近づいていることを意味したから。亮一朗も何も言わないまま車を出してくれた。

 暫く走った後で、彼は自分に会うのに勇気がいるから先に海へ行ったのだと話した。
 凪のことをどう告げようか、逡巡していたらしい。
 でも思いがけず、そこに自分がいた。
「調子が狂ったお蔭で、すんなりと言えた。助かった」

 凪と約束したことは何もない。
 ただ最初の時と同じく、別れ際、蒼が一方的に言い放った言葉がある。
『逢いたいと思ったら、そう伝えて。いつでも、何処にいても飛んでくるから』
 彼女は強い人間ではない。
 でも自分の命が、将来の多くの命を助ける役に立つのなら、それは悪くないかもしれないと思ったという。
『そう思わせてくれたのは、海に迎えに来てくれた貴男を見た時だった』
 凪はそう言って微笑んだ。

「一瞬で、凪を虜にした。兄とはいえ、ちょっと妬けるな」
 亮一朗がハンドルを握りながら、そんなことを言う。
「そうですか? 虜になったのはこっちの方なんだけどな」
 間もなく車は病院の駐車場へと入っていく。
「先に行ってくれ。病室は1805」
 分かったと答え、蒼は車を飛び出した――。

 最上階に移っていた病室に入った途端、波の音が聞こえた気がした。
 壁が青かった。天窓から秋の名残の日差しが入り込んで、壁を海の水面のように感じたのだ。

「凪。来たよ」
 蒼はそう言って、周りを囲む人たちには会釈だけをし、彼女に近づいていった。
「蒼。私、頑張ったよね」
「あゝ」
「もう、寝てもいいよね」
「うん。ゆっくりお休み」
 遅れてやってきた亮一朗が、崩れ落ちるような母親だろう人を支える。
 医師が、凪のそばを離れた。そして、こちらへと蒼を手招く。蒼は、ゆっくりと凪に近づき彼女の手を握る。
「蒼、海の匂いがする」
「海を見てたよ。凪の代わりに、ずっと見てた」
「これからも、行く?」
「うん。でも海へ行かなくても、風向きによっては波の音は聞こえるんだ。そしたら凪にも教えてやる」

 凪はありがとう、と小さく言って、そして瞼を閉じた。
 その時は静かだった。どのくらい、その静寂が続いたのか、分からない。
 ただ、その静寂を破ったのは、彼女に繋がっていた機械の警告音。医師が凪の瞳孔反射や脈の確認をすると、ありきたりの言葉を残し部屋を出ていった――。

「また来たのか」
 あの日から、亮一朗は毎日海へやってきた。
 何なら写真を撮ってPCに送ってやろうかと言ってみたが、彼は此処に来たいからいいんだと断られた。
 そういう自分も毎日、此処へ来る。この海の先に、凪がいるような気がするから。
 もう二度と話すことはないけれど、この波の音はいつも凪を思い出させる。そんな波の音を聞きたいから。そして――

「蒼。これからは、俺と友人になってくれ」
 そう言う亮一朗と共に、凪の想い出話に花を咲かそう。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 11月分小題【波】

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