『海と月と雷鳴と』

 とある日。会社へと戻る夕刻。生暖かい風のなかに、彼女を見た――。

 海水浴場でもない、その場所は地元の人間が散歩の時に歩く程度の小さな砂浜だった。
 何処からか流れ着いた流木に、彼女は海に向かって座っている。その身をワンピースと呼ぶには長すぎる、白いドレスのような服に包んで。
 その後ろ姿は黒髪が背中まで届くのが分かるだけで、年齢も顔も何も分からない。
 やがて信号が青へと変わり、蒼は車のアクセルを踏み込んだ。少しだけ心残りになりそうな、後ろ姿だけを脳裏に残して。

 暫くして、同僚の口から彼女のことが明らかになった。
 最初は、幽霊を見たと言い出した若手の営業マンからの話だった。
 よく聞くと、彼女は毎週決まった曜日に、ほぼ同じ時間に同じ場所に現れるという。
 そう、あの海岸だ。
 幽霊なわけがないと皆が言うと、でも誰も彼女が動いているところを見たことがないという。
 言われてみれば、蒼が見た時もじっと海を見ているだけだった。
「確かに、動いてはいなかったな」
 思わず呟いた。
「え? 蒼も知ってるの?」
 そう言ったのは、同期の村木だ。
「俺が知ってると意外?」
「お前って、そういうの気にしないヤツだと思ってたから」
 どうとったらいいのか分からない言葉を残し、その後、今夜飲みに行く約束をさせられて、皆仕事に戻った。勿論、残業だ。
 蒼の脳裏に、白いドレスと少しだけ風に揺れた黒髪が蘇った。

 残業を終え、飲み会もお開きとなり、帰り道を一人歩いていた。
 知らず足は、あの海へと向かった。
 昼間の日差しが陰り、夕凪となりつつある時刻だったな、と蒼は思い出していた。
 ふと気づくと、彼女の座っていた流木は少し角度を変え、まだそこにあった。
 潮の香りと波の音が、そこを海だと教えてくれる。暗闇に薄い月が浮かび、少しだけ灯りを届けた。
(彼女が幽霊なら、今出てきてくれればいいな〜)
 そんなことを思っている蒼は、充分酔っているんだと自覚しているものの、彼女の座っていた流木に座ってみる。
 どんなに待っても幽霊じゃない以上、彼女は現れる筈もなく、蒼は終電の時間を見計らって海を離れた。

 その日。
 必ず現れるという日に、蒼は再び砂浜の見える道路を走行していた。
 そのまま通り過ぎ、少し離れたところにあるパーキングに営業車を停め海へと戻った。

 確かに彼女はいた。
 同じように大きなツバの帽子をかぶり、白いドレスを着て、流木に座っている。蒼は少し離れた場所に座りこんだ。
 声をかけようかと思ったものの、結局は何も言わず視界の端に彼女を捉え、ただ二人しかいない砂浜で時だけが流れた――。

 刹那。
 遠くで雷鳴が轟いた。
 夕立がくる。
 蒼は咄嗟に彼女のもとに近づき、雨が降ると告げた。
 彼女は振り返ることなく、分かっているとだけ答え、ありがとうという言葉で蒼を遠ざけた。

 雨の前の蒸し暑さが、夏の海を包んでいた。
 蒼は結局、彼女の顔を見ることすらなくその場を離れた。
 車に戻ると、フロントガラスに大粒の雨が叩きつけるように降り始めた。
 彼女は、どうしただろう。あの時間じゃ、まだどこかを歩いているかもしれない。蒼は車を砂浜へと向けた。

 果たして彼女は、あのまま流木に座ったままだった。
 路駐で車を飛び出すと、蒼は彼女の腕を取り、車へと連れて歩こうとした。
 しかし彼女は、それを拒む。
「何?」
「雷が落ちたら、死ねるかもしれないでしょ」
 そう言って初めて振り返った彼女の顔は、静かに涙を流していた。

「俺の大好きな夏の海で、死ぬなんて許さない」
 その言葉は彼女を、現実に戻したのだろうか。
「そうね。雷が落ちるのを待つくらいなら、別の方法を考えるわ」
 彼女はそう言って、蒼の手から放れ歩きだした。
「どうして、そんなに死にたいの?」
 蒼の言葉に、少しだけ歩みを止めた彼女だったが、結局は振り返ることなく歩き出した。

「来週、また来るから」
 蒼の言葉が届いたのかどうかは分からない。
 それでも蒼は、必ずまた何処かで彼女に遇うだろうと思っていた――。

 運命とか、そういうのは考えない。
 ただ彼女だけは、絶対に忘れないと蒼はこの海に誓った。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 8月分小題【海】

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