『深々と』

 ただ、歩いていただけだ。
 何かを考えていたわけじゃない。
 でも気付いたら、周りは一面の雪景色で右も左も分からないほどの山奥まで来てしまった――。

 悲しい、と心が悲鳴をあげた。
 人というものには絶望してるのに、どこかで信じてしまっていた。いつか、きっと誰かが分かってくれると。
 だから逃げた、と言われても、そんな心算は毛頭ない。


 親を失う年齢に決まり事はなく、その後の人生も自分で決めることはない。
 気付けば、いつもこれしかないという人生だった。
 孤独、という言葉を子供の頃から嫌というほど覚えさせられ、親のいない空虚な暮らしは人の温もりを教えてはくれなかった。

 翠川沙絵子は物心つく前に親に捨てられ、他人のなかで生きてきた。
 少しだけ臆病で、それでも素直な明るい娘に育っていたが、その素直さがあだと成った。


「は〜」
 かじかむ手は、もう感覚も失っている。
 コートこそ着てはいるが、手袋もなくマフラーもなく、かろうじて履くショートブーツだけが凍えを緩めてくれる。

 もしも、これで凍死してしまったら、どうなるんだろう。
 本当に、何も考えず歩いていただけだと、誰かが思ってくれるだろうか。
 そんなことを考えるくらいなら引き返せばいいのだろうけれど、今の沙絵子にはすでにその道が分からなかった。
「これじゃ、やっぱり遭難かな」

「誰が、遭難だって?」

 心臓が止まるかと、凍死とは別の意味で死んだらどうするのだと少しだけ憤り、その声のした方に顔を向けると、果たしてそこには一人の男が立っていた。
 一瞬の間に、ありとあらゆることを考えたような気がする。
 若いのか年配の人なのかは分からない。ニットの目出し帽からは、まつ毛の長い二重瞼の様子しか分からない。
 背は、高い。沙絵子がそこそこ高いのに、彼女の軽く上をいきそうだ。もっこもこ、という表現が正に合っている。
 でも大事なことは、何も考えられなかったのかも。

 もしかして人形か、と思わないでもなかったが、この雪原に突如人形が現れる筈もなく、もう少し神々しい雰囲気でもあれば、神様かって思ったかもしれない。どう見ても、ただの男の人にしか見えないけれど。
 それとも、人は死を前にすると、いろいろなものが見えるって話す人がいるから、それかも…

「おい」

 うん。
 きっと、そうだ。いよいよ凍死寸前なんだ。

「おい!」
「え?」

「さっきから、何を訳分かんないことをぶつぶつと言ってるの」
 あれ。
 どうやら、独り言の心算が全部声になっていたらしい。
「これ、やるから、南に向かって歩いて行け。普通に家に帰りたいならな」
 そう言って、彼は沙絵子の凍える手に小さな方位磁石を置く。

 この時、目の前にいる男からの言葉が親切からだということに、彼女はすぐには気付けなかった。
 何か見返りを求められるのだと思い、暫し次の言葉を待っていた。
 でも、何もない。彼は、離れてゆく。何も残すことはない。

 待って。
 しかし、その言葉は声にはならなかった。

 沙絵子の体は、そこからもう一歩も動くことはできそうにない。
 このまま、この手の中の磁石と一緒に雪に埋もれてしまったら、きっとあの人は悲しむだろう。
 ごめんなさい。
 本当に、死を選ぶために山へ入ったのではなかったの。
 でも、どこかでもう疲れたと、何もかもを終わらせてしまいたいと思っていたのかもしれない。
 そう思いながら、瞼が重くなってくる。
 眠い。
 もう何も考えることはないのだということだけが、最後の意識だった――。



 静かな夜だった。
 今まで、どれほどの夜をこの雪の中で過ごしたのかというくらい、慣れてる筈の夜は今夜、まるで違った静寂に包まれていた。
 降り出した真白な雪は、すべての音を飲みこんでゆくようだ。

 香坂泉希は、夜空の定点観測を撮影するために、ここ三週間ほど山奥の一角にテントを張っていた。
 いかに準備を調えたからといっても、やはり二週間も過ぎると足りないものも出てくる。これがもっと深山幽谷の場所ならあるもので済ますのだろうが、ほんの少し山を下りればコンビニがあるという昨今だ。
 久しぶりに山歩きもいいだろうと山を下り、悩んだ末その日のうちに戻ってきた。

 すると雪原に人形かと思えるような、白いコートを着た女が立っていた。
 迷ったのか、と思ったが、そんな雰囲気はない。
 しかし、間もなく日没だ。そうなると一気にここは暗闇に包まれる。調達したばかりの予備の方位磁石を握らせると、早く下山するように言葉をかけた。
 泉希自身も急ぎテントに辿り着きたかった。だから、返事も聞かずその場を去ったのだが、どうにも気になる。
 少しだけでも話をすればよかった。
 結局、テントに着いた時には少しの食べ物とスポーツ飲料を持ち、引き返すための準備を始めていた――。

 沙絵子の意識が戻ったのは、泉希との邂逅から一週間後のことだった。
 泉希が、もういないかもしれない沙絵子を捜すために戻った時、雪は彼女の躰を殆んど隠してしまっていた。
 だが、かろうじてその右腕が雪の上に出ていた、泉希の渡した磁石と共に。

 携帯の繋がる場所でよかった。
 すぐに救急に連絡が取れ、彼女を麓の病院に搬送することができた。そして泉希は、そのまま病室に残ることにした。
 何故か、一人にしてはいけないような気がしたから……



 沙絵子の瞼に明るさが、蘇ってきた。躰にも体温が戻っていた。
 ここ、どこだろう。
 そう思って、瞼を持ち上げる。
「まぶし」
 思わず、目を閉じてしまった。すると声がした。
「目が覚めたか」
 沙絵子は今度こそ覚醒する。

「あ、あなたはあの時の」
 そこまで言うと、彼は医師を呼んでくると離れていった。
 ここ、病院なんだ。初めて自分の横になる場所がベッドだと気付いた。

 凍死寸前で助けられた沙絵子は、警察の調べを受けることになった。山に入る直前に起こった事件の犯人として。更に、襲われた被害者として。

 人生に絶望することばかりだった沙絵子は、あの日、命を救われた。
 だから、助けてもらった命を大切にしようと、自分にできることを懸命にしている。いつか、どこかであの人に遇った時、きちんとお礼が言えるように。

 事件は解決した。
 沙絵子は無関係であることが証明され、改めて被害者として、自分を襲った男たちを訴えた。友だと思っていた男たちからの凌辱は、彼女を深く傷つけたがそれでも闘い続けた。
 全ての裁判が終わるまで、三年もの月日がかかった。

 沙絵子は、再び山に登ろうと思った。
 今の自分が生まれた場所だ。
 彼はいない。もう写真を撮る場所を替えている。
 でも、行きたかった。
 今度はちゃんと登山口から、ルールを守って山に入る。
「今夜は、霜が降りるだろうよ」
 山の管理人さんが、そう教えてくれる。中腹にある山小屋に着けば暖が取れる。そこまで頑張れ、と姿なき彼が背中を押してくれているようだ――。

「いらっしゃい」
 山小屋の前に立って、息を切らす沙絵子にそう声をかけてくれたのは……。

 霜夜ーそうやー
 深々と冷え込む山にあって、泉希の笑顔は心に温もりをくれた。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2012年12月分小題【霜夜】









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