世が、高天原と根の堅洲(かたす)国の境に位置し、神々がそれを支配した頃。
その葦原の中つ国にも生きる民族が存在し、皆それぞれに生きていた――。
若者は木を伐り、獣を捕らえ、そして水を求め暮らした。共にあるは、幼き頃より母一人。
子供心にも美しと思う母は、いつまでもその姿を変えることなく、彼女は木の実を集め若者を助け暮らした。
森の奥。
自然は、この世の命の息吹であり、清水は星を育み流れゆく。
いつの頃からか。
この地には風が生まれ、気温が生まれ、そして季節ができあがった――。
「母者」
若者は山で獣を捕らえ、母を残した洞窟に戻ってきた。
しかし、いつもならすぐに聞こえる声がない。
今回の洞窟は奥に長く続くものであったので、もしかしたら戻ってきたことに気付いていないのかもしれない。そう思った若者は、入り口に獣を下ろし、奥へと向かい足を向けた。
「母者」
声をかけながら、進んでゆくも母の声は聞こえなかった。
何処かへ出かけたのだろうか。そんな思いを抱えながら母を待ったが、彼女は帰ってこなかった。
若者が独りになって、幾年が過ぎただろうか。
今では山の獣たちが、若者の家族になりつつあった。夜、空を見上げれば無限の闇と瞬く星に心癒され、風に乗る甘い香りに足を向け移動し暮らす日々であった。
とある日。いつものように当てもなく山を歩いていると、何かの気配を感じた。
小さな獣であれば、身近に置いても危険はない。
しかし自らを餌とするような獣であれば、狩らねばならない。耳を澄まし、感覚全てをその気配に向けた。
音だ。
足音。それも人型のように思う。
若者は、自分以外の人型を見たことがなかった。その足音は、長く見失ったままの母を思わせ、慌てて走り出す。
母だろうか。そんな胸の高鳴りとは、どこか違う警鐘にも気づいていた。
匂いが違う。これは母ではない。
危険なものであろうか。若者は手にある石を削った武器を握り直す。
それは突然現れた。
漆黒の髪を靡かせ、身体の多くを覆うは殆んど見たこともなかった布と呼ばれるものであり、肩に乗せられた皮は狩るには大きすぎるもののように感じられた。
「誰ぞ」
それは口を開く。
若者が、その言葉を理解し、言葉を返すまで暫時あった。間合いを計り、お前こそ何者だと問うた。
掌に浮かぶ汗で自らの緊張を知る若者は、その者との距離をとる。
「待て」
それは若者を呼びとめたが、彼はあえてそれを無視した。
だが遠く、聞こえた言葉に思わず足を止める。
『葦原の中つ国に、光明が戻ったを憶えておるか』
葦原の中つ国。
それは母が、誰にも漏らすなと遺した言の葉である。
「何故、その名を知る」
「そを知るお前は、何者ぞ」
とった筈の間合いは、一瞬のうちに埋められた。
「つくよみのみこと、か」
つくよみ…
月読…
月読命。
そうだ。
我は、そう呼ばれたことがある。
しかし、それを何故お前が知るのだ。
「お前は誰だ」
「月読命、お前を捜していた。仲間のもとに帰ろう」
それが腰に巻く編んだ紐を解くと、瞬く間にそれは布となり、月読の体を纏った。
「我は、鹿屋野比売。この地に隠された月読命を長く捜し続けていたものだ」
月読命は、鹿屋野比売と言った者について行くこととした。どうせ独りだ。この先、何が待ち受けようと、きっと独りでいるよりもいいだろう。
人の世で、神話と呼ばれるものは多い。
しかし八百万の神の在る葦原の中つ国は、後に神を見失い、爭いと権力の中にその存在を埋もれさせてゆく。
今では、名すら残らぬ神も多い。また名しか残らぬ神もある。
吾、月読命が男神と呼ばれるも忘れられたようである――。
【了】