その人は、いつも朗らかに微笑んでいた――。
時の過ぎるのを拒んだように、いつまでも純真な子供のままで、そして独りきりの世界に居る。
子供の頃に贈られた人形は、色褪せ擦り切れ、今ではみすぼらしい洋服を着た人の形の物でしかない。それでも彼女はそれを手離さない。
何故なら、それは彼女にとって両親からの最後のプレゼントだから。
医師から、ちゃん付けではなく、さん付けで名を呼ばれた時、彼女はそれを受け入れなかった。
何故なら、その名は母の呼んだ名ではなかったから。
だから今も彼女を呼ぶ時、周りにいる全ての人が彼女を『のんちゃん』と呼ぶ。
のんちゃん……、希未。
両親と一緒に事故に遭い、一人だけ生き残ってしまった希未。
両親共に亡くした事実を、受け入れらなかった希未。
その日から、一日も病院から出ることなく十四年を過ごした希未。
その希未が今年、二十歳になる。
学校という場所に通ったことのない希未には、友だちと呼べる人がいない。来年成人式を迎えるからといって、彼女を誘ってくれる人はいないのだ。
決まった時間に散歩をする。
決まった時間に食事を摂る。
そして、決まった時間に眠るのだ。
その希未が最近、これまでとは違った反応を見せるようになった。
いつもの散歩コースにある、ベンチの一つに座る。
そのベンチには人がいても、必ず座る。
でも話さない。
声が出ないわけではない。ただ意思がない。
話そうという気持ちがないのだろう、と医師は言う。
そんな彼女に、声をかける。
『今日は北風が強いね。早めに戻った方がいい』
今年の冬は寒さが厳しい。
でも彼女に、その寒さを理解できているのかは分からない。
ただ時候の挨拶から始まったから、最初に何かを言わないと話が続かない。
この日もいつもと同じような話をした。ただ、いつもにはない言葉を告げる。
『のんちゃん。明日は検査だから、僕は此処にはいないよ』
その時だった。
突然、彼女が腕を掴んできた。
それまで彼女が自分から何かをしたことはない。
渉が驚いて彼女の顔を見ると、その瞳から涙が一筋こぼれた――。
いつも朗らかに笑っていた彼女が、泣いている。
もしかしたら、渉が言った言葉のせいなのか。
付いてきているヘルパーさんも、やはり驚いて医師を呼んでくると病棟に戻っていった。
『のんちゃん。僕の言うこと、分かるの?』
希未は頷いた。
掴まれた腕には、信じられない程の力が籠もっていた。
『検査は簡単だから、夕方には終わってるよ。この時間にはいないけど、夕方なら来られるから。約束しようか』
この時間。
お昼前の、三十分。希未の散歩時間。
最初は長引く検査や手術に嫌気が差して、逃げてきた中庭。そこに見つけたのが希未だった。
看護師に聞くと、六歳で時の止まった少女だと分かった。
長く病身にあると、心が弱くなる。そんな時、出会ったのが希未だった。
いつも静かに笑っている。
彼女に声をかける人は多いのに、彼女の言葉を聞くことはなかった。知れば、事故後、暫くは話していたらしい。
でも、もう何年も話していないという。
いつしか希未は、渉の心の支えになっていた。
話すことはなくとも、その姿を見られたらその日は良い一日だったと思えた。
検査結果が悪くても、彼女の笑顔で勇気をもらえた。
そんなある日、渉の座るベンチに彼女が気付いた。
ベンチの横に佇む日が何日も続き、ある日、渉は座らないかと誘ってみた。
希未は、躊躇なくベンチに座った。
その時もヘルパーさんは医師の元へ走って行ったっけ。
『のんちゃん。僕ね。のんちゃんの声、聞きたいな』
病棟から出てくる医師の姿を確認しながら、そんな夢みたいなことを言ってみる。
返事を期待するわけでもないし、そりゃ、本当に聞けたら嬉しいけれど無理はしない。
頑張れって言葉は渉自身が大嫌いだからだ。
希未は渉を認識できている。それだけでいい。
「名前は何?」
突然のその声は囁くような小さな音で、渉の耳に届いた。
『のんちゃん?』
見ると、まだ希未の瞳は涙で濡れている。
「あなたの名前は何ですか」
あどけない、問いかけだった。
渉も瞳の奥に熱いものを感じながら、『わ・た・る』と一文字ずつ区切るように希未の耳に唇を寄せ告げた。
それは、まるで内緒話をするかのごとく、小さな秘密を伝えるように愛しい想いも込めてみた――。
【終わり】