『暖かさ』


 秋の夕暮れ。
 暑すぎることもなく、だからといって寒いと感じるのはまだ早い。

 今日は朝から忙しかった。
 職業はメイクアップスタイリスト。最近は、映画作品との契約でロケにつきあって地方に行くことも多かった。
 一式のメイク道具は荷物として運送してもらうわけにはいかない。ただロケが長いと予備も必要になり、主役クラスの専属でもないかぎり膨大な種類の予備はかなりの重さとなって肩にくい込んでくる。

 五日の予定で出発したロケハンは、今日の早朝ロケに出て、そのまま帰京。撮影所から少し離れたところの駐車場から、やはり荷物を担いで歩いていた。
 もう少しだな、と思ったところで突然、力尽きたように足が止まる。
 滝本京輔は近所の公園に入り、荷物を置きベンチに座り込む。
 足を延ばし、両手を真上に上げ体全体を弛緩したかった。すると、もう一人のスタッフが後を追ってきた。
「先に行って。少し休んでいくから」
 ところが彼女は撮影所には向かわず、俺の隣にあるブランコに座った。子どもたちの姿はない。夕方のこの時間、何故、こんなに閑散としているのかと思っていると、ブランコに座った八木澤さちほが小さな声で笑う。

「滝本さんって面白いですね。男性で、誰よりも気配りとかできるのに、近所の行事には疎いの」
 いったい何の話だと思ったが、彼女は気にするふうでもなく先を続ける。
「今日は、一番近くの小学校で遠足があったらしいですよ。そろそろ帰ってくる頃かな」
 腕時計を見ながらそう言って、今度は顎を、反対側を見ろとでもいうように突き出す。
「ほら、帰ってきた」
 確かに、カラフルなリュックを背負った子どもたちが集団で公園の周囲を歩いていくのが見える。
 楽しそうな笑顔だ。
 少しだけ、現実から遠い世界を思う。

 刹那、視界が薄暗く遮られた。
 咄嗟に、置かれた手を掴む。

『あ。』

 暫し黙ってその手を掴んでいると、手の主ではなく八木澤が聞く。
「あれ、どうしたんですか」
 その言葉を聞いて、その人はどんなリアクションをしてみせたのか。殆んど動かない後ろに立つ人は、結局何も言わないままだ。
「滝本さん。誰だか、分かりますか」
 次に八木澤は、俺のほうにそう問いかけてきた。

 分かるさ。
 この感触だけは絶対に間違うことはない。ただ素直に告げてしまうのも癪に障る。
「分からないって言ったら、どうなるのかな」
 それは八木澤に向かってというより、手の主に向かって言ったような感じになったものの、やはり答えは八木澤からだった。
「もし分からなかったら、今夜は私がお持ち帰りします」

「よせ。分かるよ。藤緒さんだろ」
 慌てて答える。
 その瞬間、二人は大笑いし出した。

 何だよ。
 業界の連中に連れていかれたら、今夜中には帰ってこられなくなるじゃないか。
「相変わらず愛妻家ですね。いつ気付きましたか」
「手に触れた時に」
 ここは正直に白状、っと。

「やっぱり滝本さんは奥さんに惚れてるね。羨ましい」

 それだけ言うと、じゃ、お先にね、と残して八木澤は荷物を担いで撮影所に戻っていった。
 その人の手は、さっき大笑いした時に下がっていて、今は後ろから首に巻きつくように抱きついている。

「今日はどうしたの」
 八木澤が奥さんと呼んだ手の主に声をかける。
「近くまで用があって来てたの。そうしたら監督に会って、もうすぐ京輔が戻ってくるって言われたから捜してた」

 四日振りの温もり。
「藤緒さん。もう少し、このままでもいい?」
 そんな俺の我が儘に、彼女は少しだけ笑って、いいよと答える。そしてもう少しだけ前のめりに近づいてくると、左頬にキスされた。

 どうやら疲れ切っていたのは躰ではなく、心のようだ。さきほど訪れた目隠しによる暗闇は、全てを弛緩してくれた。
 けれど、本当に満たされていると思ったのは彼女の手を掴んだ時。まるで乾いた地面に水が吸い込まれてゆくように、藤緒の暖かさが俺の心の奥深く沁みこんでくるのを痛感した――。
【終わり】

著作:紫草

NicottoTown サークル「今週のお題・別館」より【目隠し】2012.10.01
別館表紙
inserted by FC2 system