派手な音を立てて、子供部屋のドアが開いた。
本人はきっと静かに開けている心算なのだろう。息遣いが、こそっとこそっとと聞こえてくるよう。
暫くすると何かを引きずっているような音がする。これはきっと、たもが廊下についてしまっているのだろう。
玄関に置く小さな音。たもと虫篭は準備万端のようだ。今度は何だろう。
小さな足音は、次にキッチンへと向かった。
小さなリュックには昨日用意したタオルやティッシュ、そしてお菓子が入っている。そして三十分前に私が用意した、おむすび三個とお気に入りの水筒。今日は特別に麦茶じゃなくて、アクエリアスだ。
いつもは叩(はた)いたって起きないくせに、どうしてこういう日は起きられるんだろうね。
齢(よわい)八歳の大冒険。息子は今年小学二年になった。そして夏休み。今日は同じ小学校に通う五年と六年のお兄ちゃんとのカブト虫やクワガタムシを捕りに行くという、早朝の約束を果たそうとしているのだ。
余分に作ってあるおむすびを食べているのだろう。
冷蔵庫を開ける音。麦茶をコップに注ぐ音。そして食べ終わったお皿とコップを流しに置いて洗面所に向かう。
健斗って、こんな音してるのか。
何だ。
いつもは寝ぼけ眼で、半分背中を押すように支度をしてるのに、ちゃんとできるじゃない。
私は思わず吹き出してしまった。
「笑っちゃうな」
寝ていると思っていた夫が話しかけてきた。
「起きてたの」
「やっぱり気になるだろ。健斗の初めての冒険だから」
でも昨日、約束をしたから寝室を出ていくわけにはいかない。
絶対に自分だけで出かけると、大見得を切る健斗に夫が、じゃあ一人でやってみろと言ったのだ。
「少しだけでも覗いちゃ駄目かな」
「そういう気配は気付かれる。後で、健斗の冒険にケチつけたって言われるぞ」
そうは言ってもやっぱり心配だよ。
足音が玄関に向かう。
いよいよ出かけるんだ。こんな思いをしていると、初めて幼稚園に行った時のことを思い出す。ほんの数時間がどれほど長く感じたことか。
パタン。
ガチャ。
ばたばたばたばたばた……
夫と私は、潜めていた声を張り上げて笑った。
すぐに携帯がメール着信を告げる。最近の子供はしっかりしたもので、携帯で連絡するからと言われてしまったのだ。
総勢六人の虫取り隊。どうやら全員揃ったみたい。
――けんとに会いました 行ってきます
自転車で十分くらいだろうか。
小さな林に向かい、どんな気持ちでいるのだろう。
私の方が、どきどきしてしまう。
まるで小さな冒険者に、親離れの訓練をさせられているみたい。
「起きちゃったから、朝メシ作ってやるよ」
ベッドの上で、まだ携帯の文字をなぞっていた私に夫がそう言ってくれた。
「ありがとう」
午前四時、少し食べたらお散歩でもしよう。
折角、健斗のくれた朝の時間だもんね。有意義に過ごさなきゃ。
お昼間近になって、またメールが届いた。
みんなで幼虫や虫をいっぱい捕った、と写真が添付されている。そこにはカブト虫とクワガタを両手に持った健斗が満面の笑みをたたえ、写っていた――。
彼は、この時捕ったカブト虫を大切に育てていたが、冬の前に死んでしまった。それはそれは悲しんで、今度は私と一緒に、同じ林へ埋めに行った。
そして、もう一匹のクワガタは越冬し、次の夏まで育てていた。
一人っ子の健斗には、命というものを心底教えてくれた二匹の虫たちだった。
彼は、この時の思い出が余程強烈だったのだろう。
今、生物の勉強をしたいと専門の大学へ進むべく頑張っている――。
【終わり】