『あしたも、風は吹いていたのに…』(完全版) 其の弐

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 そして月日は流れる。サンフランシスコ平和条約が締結され、国際法上完全に戦争を終結することが決まった。
 この条約の発効は、昭和二十七年四月二十八日。秘密裡に囚われていた男は、この日、七年振りに日本の土を踏んだのである――。

 荒れ果てた家だった。否、家と呼ぶのもおこがましい程の壊れ具合だ。雑草に足をとられながら、引き戸のあった場所に辿り着く。
 抜けてきた村里にも見知った者はおらず、どこの馬の骨がやってきたのだという視線だけが向けられた。

 妻は、何処に行ってしまったのだろう…

 昭和二十年春、男に届けられた赤紙には、通常にはない意味が含まれていた。
 召集された場所には滞在せず、すぐに航空母艦信濃に向かわされた。学力が優れていたわけではない。専門知識があったわけでもない。特殊任務を受けたわけでもなく、ただ工廠視察の際、男の勘のよさと、手先の器用さをその慧眼で見抜いた上官がいただけである。

 男の乗艦した信濃は戦局の変化に伴い戦艦から空母に設計変更されたものだった。
 艦の素晴らしさは上官の表情を見ているとよく分かった。初めて招集された兵士も多く、上官からは日々信濃の自慢話を語られた。
 ところが実戦に向けての回航中に被雷転覆、そして沈没する。あれほど強い空母だと聞いていたのに。信濃は、本当に運の悪い航空母艦だったといえよう。乗員の多くが経験の浅い新人補充兵だったこともあり、半数以上が海の藻屑と消えた。
 当時、最大の排水量を持つと言われた信濃は、実戦投入前にこの世から姿を消したのである。

 男は米軍に海上捕獲され、そのまま信濃の設計図を知る者として米国に連行、国際法上の終戦を迎えるまで非公開の捕虜として過ごした。日本国は捕虜はいないと言ったらしい。日本語の話せるアメリカ兵が、自分たちの世話をしてくれた。新聞やニュースを見ることは許されなかったが、日本が戦争を放棄したという話は聞かされていた。
 時期がきたら、というだけの時間が経ったのだろう。サンフランシスコ平和条約の話を聞いた敗戦国の兵士たちは、そのままそれぞれの国に合わせた処遇がなされる。日本人は流れ作業のようにサインを求められ読めない英字の書類に署名指印し、それぞれ帰国の途に就いた。
 すっかり平和を取り戻し暗い影のない日本に愕然としながら、とある米軍基地に降り立つ。どういう話し合いがなされたのか、何の咎めもないままに国内の土地へ放り出された。
 この七年という年月を男は不思議な空間を彷徨う異邦人だと思って耐えてきた。だが母国に帰ってきたというのに、今の方が余程異邦人のような感じを受けるのは何故だろう。それでも微かな記憶を手繰りよせ、自宅へと足を向けたのだった――。

 たぶん引き戸であった場所に立つものの、扉そのものが割れて斜めに傾いている。扉を引いたら、家そのものが一気に崩壊してしまいそうだ。
 仕方なく一旦、村里へ引き返すことにした。妻の消息を知る者がいるかもしれない。急いで登った山道を、今度は足取り重く引き返す。
 だが誰も知らなかった。戦後、暫くは住んでいたと言った者が数人いただけだ。
 彼は再び山を目指す。泊めて欲しいと言える雰囲気はなかったから。戦後の話も少し聞く。日本ではあの年の八月十五日に戦争は終わったという。信じられない話の方が多すぎて混乱するばかりだ。
 夕闇が迫る頃、漸く帰り着いた。もう中に入ろうとも思わなかった。そのまま倒れ込むようにして草に眠る。捕虜だった頃の方が断然いい扱いだったな、と自嘲した笑みを浮かべながら。

 深夜。
 妻を夢に見た。
 母を看取ってくれた礼を言うこともなかったと改めてその言葉を口にする。六月に生まれた彼女はそれにちなんだ名を持ち、呼ぶと記憶にあるままの姿で振り返る。
 夢はいい。手の届くところにいて、実際にその感触が残る。あどけなさを残す彼女は、いつか二人で温泉に行きたいと話した――。

 目が覚めると、嫌な予感が奔った。
 すでに家と呼べないような我が家だ。だが人がいなくなったことで、朽ちていったのだとしたらどうなるのだ。
 彼女はどこへ行った。否、消えた。
 あいつは天涯孤独だったのに、どこにも行く処なんかなかったのに…。

 男は立ちあがると、いつ崩れてくるかもしれない家の中を捜し始めた。
 いないのならいい。別の場所を捜すだけだ。ここは廃屋と化している、その事実を確かめる。

 しかし男は見つけてしまった、すでに腐敗臭すらしない彼女の骸を――。

 日記をつけていたことから、数年前に死亡していたことが判明した。検死とは名ばかりの調べがされた。日記の内容から何らかの病に罹っていたのではないかということで、事件の可能性も消えた。
 日記は自分の帰りだけを楽しみに、平仮名と片仮名だけの拙い文で綴られている。すでに漢字を書くことができなかったようだ。それは送った菓子缶に収められ、朽ちることなく色褪せただけの形で残された。その想いと、この年月を彼女の代わりに在り続けた。
 男は、警察から戻された日記だけを手に山を下りる。

「ミナ」
 呟くように口にした名は愛おしく、辺りを包みこむように響いた。
(今度は私が、天涯孤独になってしまったよ)
 自分のいない終戦に何を思ったのだろう。何年経っても帰ってこない、そんな男をどんな思いで待っていただろう。

 記された嵐の到来に、怯える姿が目に浮かぶ。叩きつける雨音を人が来たのだと間違えて、ずぶ濡れになったとも書いてある。
 風雨だけではない。雷鳴轟いた夜もあっただろう。台風だってきただろう。大きな地震もあったかもしれない。
 日記の終わったその日には、六月の日付が書いてある。大好きな水のその月に、逝ってしまうことはなかろうに――。

 きっと迎えた最期の日にも、君の好きな六月は穏やかな時が流れていたろう。そしてその次の日も、優しい風が吹いたろう。

【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 6月分小題【雨】

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