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色香2 『腕(かいな)』

 帰宅した三枝和紗は、ソファに脱いだ背広を叩きつけた。
『何なんだよ、あの女は』

 どちらかといえば、温厚といわれることが多い人だ。
 その和紗が激昂するのは珍しい。

 南條花音は一足先に和紗の部屋に行き、待っていた。結構どきどきしながら待っていたのに、彼は何も言ってはくれなかった。
 そして出てきた言葉が、何なんだよ、あの女…… という、彼にしてはかなり珍しい語調での捨て科白。何事だろうと思いつつも、冷蔵庫に行きミネラルウォーターを持ってきた。
『サンキュ』
 差しだした花音に、ぶっきら棒にではあったが礼を言葉にしたことで顔を見る余裕ができたのか。今度は穴のあくほど見つめてくる。
「何」
 花音は尋ねながら、叩きつけられたスーツをハンガーにかける。その姿を目で追われているのが分かった。
 改めて、何だと聞こうとしたところで彼の方が先に口を開いた。
『女って怖いな』
 呟かれた言葉に、花音は判断を誤った――。

 その日、セッティングされた合コンで、和紗は紗江子と消えた。
 花音と、他に呼ばれていたメンバーは移った店で三時間待ったが、結局二人は現れなかった。何人かの同僚や同期に、次へ行こうと誘われたが、断り此処にやってきた。
 そして渡された鍵を、初めて使った。

 和紗の言葉に、紗江子と何かあったのだと思い、きっといて欲しくないのだと思った。かけておいたコートを取る。
「帰るね。ありがとう」
 そう言った言葉に、あゝという短い相槌だけが返された。
 もう面倒なのだろう。ソファにぐったりと沈みかけている。
 花音は玄関にある下駄箱の上にスペアキーを置き、去った。

 終わる時は、呆気ないもの。きっと、これで終わる。

 和紗の部屋から最寄駅までの道を、ゆっくりと時間をかけて歩いた。
 涙は流れなかった。あまりに突然すぎて、まだ感情が追い付いてこないらしい。ただ心に空洞ができたようだ。何も考えられない、自分の気持ちなのに。

 確かめたい。何があったのか。
 でも、それはできそうにない。背を向けられた人に、言葉をかけることができないから。
 失くしたものは何だろう。

 ふと足を止め、空を見上げた。
 雨上がり。珍しく、多くの星が瞬いていた。
「綺麗」
 満天の星が、降ってくるような錯覚を起こしそうだった。

 恋を、失ったんだよね。

 そう思った刹那、目頭が熱くなった。

 あ、涙。
 自分でも気づかぬうちに、涙が溢れてくる。拭うこともせず、ぽろぽろと零れてゆく雫。

 降るような星空は、その闇をどう捉えるのだろう。
 自らが輝くために、その漆黒を愛おしく思うのだろうか。

 花音は、和紗と共にあった時間を思い返す。
 誰にも伝えず隠し通したことは、きっと役に立つだろう。それだけが救いかもしれない。

 もう少し歩くとコンビニが続く。
 そうなるとネオンが明るく、星空の表情も変わってしまう。
 見上げていた視線を足元に戻し、花音は再びヒールの音を立てながら歩き出す。
 その時だった。

 後ろから、ぶつかるように抱きしめられた。
『俺が』
 悲鳴をあげる前に、その一言が、その腕(かいな)の持ち主を和紗だと教えてくれる。
 ただ、何も言えずに立ち尽くしていると、少し呼吸を整えて彼が言った。

『何があっても、俺はお前を守ってみせるよ』

 その言葉は、花音の項に暖かく届く。
『ごめん。ちゃんと話すから、戻ろう』
 和紗はそう言うと花音の手を握り、もと来た道を歩きだす。

 守る?
 誰を?

 頭のなかで繰り返される、先ほどの言葉に意味が加わる。
「ちょっと待って。私を守るってどういうこと」
 和紗の腕を引っ張って、止まらせる。
『ここじゃ、ちょっと話し難いんだけど』
 そう言いながら、また手を引かれ歩き出す。
『先輩のこと、あんまり言いたかないけどさ。松下紗江子って最低の女だな』
 そして、あとは部屋に帰ってから、と。

 やっぱり紗江子と何かがあった。
 でも今、繋がれる手は暖かく優しい。
 少しだけ和紗の横顔を見た。さっきまでの険悪な顔は気配を消し、いつもの穏やかな表情が戻っている。

「本当のこと、教えてくれる?」
 和紗の顔を見たまま、聞いてみた。
『花音に嘘はつかないよ』
 そう言ったと思ったら、あっという間に近づいてきて、すぐに離れていった。

 あれ、今……

 少しだけ覗き込むように、彼を見る。
 そして、ほんのり赤くなる初心な和紗を垣間見た。

【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 2012年3月分小題【星空】

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