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色香8 『男』完結編U

 母、という存在を、花音は持て余している。
 一人っ子の状態で我が儘放題だった頃もあった。たぶん、その頃は母を独り占めしている感覚もあったと思う。
 しかし、あの事故は起こった。気づけば花音は片腕と父を喪い、母という名の人から恨まれるようになっていた――。

 母が指定した日はハロウィンイベントで賑やかな頃だった。どこで会おうというのか、とどきどきしながら待っていると、自宅に来るように言われた。
「家へ行くの?」
 思わず受話器を握りしめていた。法事ですらお寺さんに直接出かけ、仏壇にお参りの必要はないと言われ続けているのに、何故、今になって自宅に招くのだろうか。

 その夜、和紗が帰宅すると花音は母の言葉を伝えた。行きたくないという気持ちだけは辛うじて呑み込んだが、どこかで、行かなくていいという言葉を期待している自分もいた。
 しかし和紗は何も言ってはくれなかった。それどころか、行ってくるといいと後押しされてしまうのだった。

 墓地で遇ったでしょ。あの家族のいるところへ、どうして行けと言うの……。
 花音の心の叫びは誰にも届かない。久しぶりに味わう絶望だった。和紗と出逢ってから、こんな淋しい思いをすることはなかった。彼の家族との関わりが気まずくなってしまってから、以前のように全てを聞いてもらうことはできなくて、彼自身は変わっていないのに一線を引いてしまっている自分がいる。

 約束というものは、相手によって気持ちが変わる。そして嫌な相手ほど、その日の近づくのが早く感じるのだった。
 そして訪れる約束の日。
 重い足を引きづるように自宅と呼べない実家へ向かう。

 途中、事故にでも遭わないかと思ってみたり、急な用事でもできたりしないかと想像してみた。でも現実は、そんなに甘くない。
 どんなにゆったりとした足取りでも、一歩ずつを刻んでいけばやがては辿り着いてしまう。そしてすでに記憶の中ですら、ぼんやりとしか思い出せない実家の前に立つ。
 表札は同じ。でも違う。たぶんリフォームでもしたのだろう。花音にその差が分からないだけで、以前の家を知っている人には一目瞭然なのだと思う。
 そこで足が止まってしまった。

 カメラのついたインターフォンの前で、それを押すことができない。
 数少ない思い出が花音に引き返すよう告げている。今更、どんな話があるというのだろう。想像したくても、それすらできない程、疎遠な人たちになっていた。

「花音ちゃん?」
 立ち尽くしていたら、少し離れたところから呼ばれた声を聞く。振り返ると伯母が歩いてくるのが見えた。
 お久しぶりですと頭を下げると、彼女は涙声で花音を抱きしめた。
「伯母さん?」
 動くことができず、かといって体を離すこともできなかった。それよりも、よく花音だと分かったものだ。もう十数年会っていなかったというのに。伯母は亡くなった父と、戸籍上の父である叔父の姉に当たる。事故が起こった時に物凄く怒られたことしか憶えていない。何故、この人が自分を抱きしめながら泣いているのか、分からない。

 暫くして、ごめんなさいねと離れると花音の背に掌を添え門扉を開けて歩きだす。
 気持ちの整理というか、覚悟がまだ充分じゃない。でも、それを言う雰囲気ではない。
 どうしよう。
 そんなことを考えていると、玄関が開いて母が現れた。

 これまでの条件反射みたいなものだ。
 一瞬、息を止め、言葉を探す。叱られないように、良い子でいるための言葉を。
「入って」
 母はそれしか言わなかった――。

 入ると見覚えのない廊下と奥にリビングがあった。そこには弟妹と母、そして一緒に入ってきた伯母の姿があった。どうやら叔父はいないようだ。少しだけ息を整え、勧められたソファに座る。
 暫くは伯母が一人で話していた。近況を聞かれたり、弟妹の様子を教えてくれる。二人は褒められると照れ臭そうにはにかみ、お小言を言われると言い訳をしていた。
 何だろう、この家族団欒のような雰囲気は。

 花音の想像を超えた状況に、漸く答えをくれたのは母ではなかった。
「三枝さんのご両親が訪ねてきたのよ」
 その言葉は花音の中で爆発を起こすような衝撃を与えた。

 今、何て言ったの……

 伯母は、この先は貴女が話しなさいと母に言う。しかし、その時の母はハンカチを目に当てて、とても話のできる状態ではないように見えた。すると高校生の妹が口を開いた。
「三枝さんのおじさんがね。お父さんに事故の話をしにきたの。それでお母さんが知らされていたことと、真実が違うってことが皆に分かったの」
 花音には、何の話をしているのか。全く理解できなかった――。

 あとから教えてもらったことを繋ぎあわせれば、納得できることも多い。思えば、三枝さんからの連絡は途絶えたのではなく、家族に花音のことを許してもらいたいと考え、あえて離れておこうとしていたらしい。花音の家族に連絡を取って会いに行ってくれていたのだという。そんな中で母に会うと、花音が殺人者のような物言いをする。何かがおかしいと思ったそうだ。
 調べていくと母は事故の後、入院していたことが分かった。そして叔父と再婚した頃は逆行性健忘という診断を受けていたという。花音自身が入院していた時期だ。母が入院していたなどと知る由もなかった。
 何故、和紗のおとうさんはそんなことが分かるのかと尋ねたら、彼は弁護士だよと答えが返ってきた。

 とりあえず、あの日は母が泣きながら謝り続けていた。話の大半は伯母と妹が教えてくれて、だからといって三枝さんの話が続くわけでもなかった。
 ただ一つだけ分かったことがある。母は病気だったのだ。現在、事情を知らされると、自分のしてきたことの恐ろしさで再び心が病んでしまいそうだと言っていた――。

 優しい人だった。父を亡くした悲しみから立ち直るために花音を利用してしまったと、その後叔父から聞かされ、頭を下げられた。そして、いつも不憫だと思いながら何もできなくて申し訳なかったとも。
 人を憎むことを生きる支えにした、と聞かされて、母のこれまでの言葉の数々が蘇った。正直、花音自身が母を恨んでも仕方がないと思う。しかし母は、どんなふうに扱われても母なのだ。家族としての空間はなくとも母はやはり、たった一人の母だった。
 花音は生きていてもいいのだと、初めて思えた瞬間だった。

 結婚の話が本格的に進み始めるのは、この対面から一年後、クリスマスのこととなる。
 あの墓地での邂逅。あの日、和紗に出逢わなければ母、そして家族との和解はなかった。どれほど大切な人に出逢ったのだろうかと痛感する。すると彼は、少しは惚れ直した? と聞いてきた。
「本、読んでたんじゃないの?」
「花音の百面相見てたら、内容なんて頭に入ってこないよ」
 ひどい!
 でも、こんな人だ。

 三枝家と南条家の初顔合わせも仕切り直し、これから結婚式の準備に入る。
 年下の和紗を花音が守ると思っていた頃もあった。しかし、いつしかその立場は逆転していた。今は、何があってもついていける人だ。そんな風に思える本物の男に、彼は変貌を遂げている。
 そして、そのかんばせに花音はすっかり魅了されてしまったのである――。
【了】

著作:紫草


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