『道傍苦李』

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 よく耳にした言葉に、あんた誰? というものがある。みんな個人の私と話していたわけじゃなかったらしい。
 印象に残っているのは高校時代。ほぼ自宅近くの高校へ進学する。多くの生徒に見覚えがあるのは当たり前という環境に、やはり『誰』と聞かれ続けた。
 卒業式の最後のホームルームでも、私を名前で呼ぶ者はいなかった。

 大学では、もっと人と疎遠になる。
 教授の伝達は掲示板とメールで事足りた。共同作業もなければ、学食も一人で困らない。人が私を覚えぬように、私も誰一人として覚えず過ぎてゆき、間もなく卒業式という春のことだった。

 学校の最寄駅を出ると、老婆が蹲っている。
 どうしたのだろうと思い、辺りを見回すと近くに杖と、紐の切れた鞄が落ちていた。私はそれを取り、老婆に差し出す。彼女はひどく驚いた顔をして、茫然と見えていた表情が見る間に哀しげになり、そして両手で顔を覆った。
 鞄を脇に置こうとした私の腕を掴むと、その手は震えている。どうしようかと思っていると、先に声をかけられた。
「ありがとね。誰かにぶつかっちゃったみたいで、転んじゃったわ」
 恥ずかしいわね、と言いながら杖を取って立ち上がろうとしている。その姿を見ながら、どのくらい此処に座り込んでいたのだろうかと思った。
「大丈夫ですか」
 でも詳しくは聞けなかった。立ちあがる為の手を貸しただけ。もらった言葉がどれほど嬉しく響いたかも伝えられず、触れた人肌が妙に温かく驚いた。
 そんなふうに思えたことも貴重な経験なのに、ありきたりの言葉だけで老婆と別れてしまった。そんな自分に嫌気がさした。

 これだから、道傍苦李なのよね。

 もう授業もないのに、何となく学校へ来てしまうのも他にやることがないから。図書室はいつでも誰にでも開放だから、一番居心地がよかった――。
「愛澤さん。少しいいかな」
 その言葉に、すぐには反応できなかった。
 だって学校で名前を呼ばれることなどなかったから。そこに人がいるのは分かっている。でも顔を上げられない。
 きっと、からかわれている。何も言わなければ、諦めて離れていく。これまでが、そうだったように。
 でも、この男性は違った。まず名前を呼んだ。どうして私の名前を知っているんだろう。もしかしたら、誰か同じ名前の人と間違ってるのかも。きっと、そうだ。私に用事がある人がいる筈ないから。だったら間違いを訂正しないと。
 そこで漸く顔を少しだけ動かしてみる。
 見えたのは濃紺のデニム。水色のシャツ。そして机に置いている右手。
「そろそろ話してもいい?」
 今度こそ、本当に驚いて声の主の顔を見た。

「この前、ばあちゃんを助けてくれたのって愛澤さんだろ。ありがとね」
 その人は隣に座って、椅子を私の方に向けると頭を下げた。
「え?」
「だから、そこの駅出たとこで転んでた人、助けたろ。あれ、俺のばあちゃん」
 言われた言葉の意味は分かった。
 あの人のお孫さん。
「お礼はもう仰って戴きました。怪我とか、もっとちゃんと確かめたらよかったのに何もしないまま別れてしまって。大丈夫でしたか」
 その言葉に、少しだけ眉間に動きを見せた後、大丈夫だと答える。

 何だろう。
 違和感… きっと何かある。そして、それはよくないこと。これは、もう長年の経験からくる予感というより確信。

「何かあったんですね。申し訳ありませんでした」
 席を立ち、私は頭を下げた。
「どうして愛澤さんが謝るの」
「私、何かよくないことしちゃったんですよね。だから捜したんでしょ。弁償とかですか。もう回りくどいこといいですから言っちゃって下さい」

 彼は、暫く何も言わなかった。
 次は、立ったままだった私の腕を引っ張って椅子に座らせた。ここ図書室だからと言い出した後で、場所を変えようと私の荷物を片付け始める。

「ちょっと待って下さい」
「だから、もう少し小さな声で話さないと司書さんが睨んでるよ」
 そう言われて思わず口を押えた。

 連れて行かれたのは、少し歩いたところにあるファミレスだった。まだお昼を済ませていないという彼に、私もだと思いパスタとフリードリンクを注文する。
「あのさ。愛澤さんには純粋にお礼を言おうと思って捜したんだ。別に他意はないよ」
 彼はドリンクコーナーに行くと、グレープフルーツジュースを二つ持って戻ってきた。一つを私の前に置くと、後で好きなもの取りに行ってねと。

 言葉を失った私は、運ばれたパスタを黙々と食べた。彼も何も言うことなく、ランチを食べている。
 そして突然気付いた。私、この人の名前を知らない。
 でも今さら聞けない。というか、きっと、もう会うこともない。

 そんなことを思っていたら、彼が徐に席を立ち出入り口へと向かう。何だろうと思って、そちらに目を向けると、あの時の老婆が杖を突きながら歩いてくるのが見えた。立ち上がり、彼女を待つ。
「先日は失礼しました」
 もっと別の何かを聞かなければならないのに、結局、私という奴は肝心な時に役立たずだ。

「いえいえ。本当にありがとうね。貴女が声をかけて下さらなければ、いつまでも座り込んだままだったわ」
 そんなふうに言いつつ、彼に手を借りながら向かいに座り、私にも座ってと言う。

 彼の祖母は学校の近くに住居があるとかで、最寄駅は学校と同じ。だからこそ、あの時会った。
 聞けば、引ったくりに遭ったのだという。驚いたのは私の方で、それなら警察に行かなければならなかったのだと気付く。
 そっか。
 だから彼は私を捜したのね。
 でもこの場合、引っ手繰られたものを弁償するのかしら。

「……いいかな」
「え?」
 自分の世界にどっぷりと浸かっていたので、何を言われたのか分からなかった。
「ごめんなさい。それで、私は何を弁償したらいいんですか」
「はっ?」
 今度は彼の方が、面食らった顔をした。
「さっきから聞いてると、俺が凄く悪い奴に思えるんだけど。何も弁償してもらうものはないし、そうじゃなくて、今度三人で食事してもらえないかって聞いたんだけれど」
「え?」

「まあまあ。可愛いお嬢さんね。私ね、貴女のことを知っていたのよ。いつも背筋を伸ばして身綺麗で、こんな人が悠斗の恋人になってくれたらいいのにってずっと思ってたの……」
 驚きすぎて、顔はたぶん真っ赤になっていただろう。
 人に見られてた? 信じられない。でも、私を知っていたからこそ、あの時思わず縋りついてしまったと話される。

 感情を忘れたように生きてきた。
 家でも学校でも、どこにいても透明人間。
「俺、芦谷悠斗」
「え?」
 また笑われた。
「その癖、本当に可愛いわ」
 彼女はそう言って、食事に誘ってくれる。
 私を。
 私として……。

「道傍の苦李じゃ、ないんでしょうか」
「莫迦なこと言わないの。私は貴女のお蔭で怯えることなく済んだのよ。よかったらお友達になってね」
 言葉は出てこなかった。
 人とのコミュニケーションはペーパードライバーみたいなものだから。でもきっと、これからは頑張れる。友達ができるんだ、こんな私にも。
「私、愛澤磨矢です」
 すると彼は、知ってるよと言って笑ってくれた――
【終わり】

著作:紫草

NicottoTown サークル「今週のお題・別館」より 【みち】2013.06.07
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