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東雲3 『金木犀』

 お隣の、綺麗なお兄さんは先週引っ越していった。

 食事に誘ってもらったのに、思わず断ってしまった。
 生まれて初めて男の人に誘ってもらったのに。凄く嬉しかったのに。
 原嶋舞夏、もしかしたら一生の不覚をとったかもしれない――。

 馬鹿だ…
 もう会うこともない人のことを、ずっと考えちゃうなんて大馬鹿だ。
 この一週間、部屋にいるとぐるぐる同じ思考に囚われている。

 あの日、あの女が店に来た。
 話があるので休みをもらって欲しいと言われ断ったら、今度は店長にお金を払うから専属で付けて欲しいと頼んでいた。
 チェーン店のしがない居酒屋ではあるが、だからこそ比較的個人の判断に委ねられる部分も多い。規則書はあるが、大事なのは人の中味だという店長は、お金の力で何とかしようとする人が大嫌いだ。だから当然、その頼みも断られた。
 結局彼女は客として席を取り、煩い店内で注文するたびに少しずつメモを渡してくるという作戦に出た。

 最初は読まずに捨てていた。
 何枚目のメモだったろうか。
 そこに『アパートの持ち主は穂坂桃里だ』と書いてある文字を見てしまい、思わず息をのんだ。
「貴女のいるアパートは、彼のものよ。きっとあのアパートは特別なの。だから本命の女が訪ねてきてる筈なの」
 そこまで聞いてしまって、慌てて席を離れた。

 大家さんを知っているかと尋ねた時、桃里は何と答えたっけ。思いだそうとしても思い出せない。
 知る筈がないと思っていたから、答えなんて気にしてなかったかも。
 あのオンボロアパートは彼のもの、というのは本当のことだろうか。

 一度聞いてしまったことは頭から離れない。注文をするために何度も席に呼ばれ、そのたびに桃里の様子を囁かれる。
 最近は、自分が通うので二番目の売上になっているとか、プレゼントした香水をいつもつけてくれているとか。
 次第にイライラしている自分に気付く。
 関係のないことだ、と思い切ろうとしたら、知らない名前を告げられた。
「水野操って知ってる?」
 ちゃんと話したのだって昨日が初めてだったのに。桃里の名前すら知らなかった舞夏に、彼の何が分かるというのだ。
 知らない、と言って離れようとしたら腕を掴まれた。
「何ですか」
「私」
「は?」
「水野、操。いい名前でしょ。桃里君から聞いたことない?」
 普段、他人に対して嫌悪感を抱かないように気をつけてはいるが、こういう人は苦手だと思った。
「おばさん、いい加減にして下さい」
 おばさん、という言葉は彼女にとって禁句だったのか。突然怒り出したかと思うと支払を済ませ出ていった。

 そのまま普通に帰宅したのなら、誘いを断ることはなかった。
 仕事を終えて外に出ると水野操が立っていた。そして、店に出ている桃里とアフターとやらで遊びに行くと言う。
 アフターが何かも分からなかった。ただ彼と遊びに行くと聞いて、ざわついてしまった、胸の裡…

 今日はスーパーのバイトが休みだったから、居酒屋に入る時間が早い。
 そろそろ買い物に行っておこうかと時計を見ていると、玄関のチャイムが鳴った。舞夏の家のチャイムを鳴らすのは、国政調査の人くらいのものだ。そして、それは今年行われない。
 玄関を睨むように見ていた。暫くすると、ドアを直接叩く音がする。
「舞夏。穂坂だけど、いないの」
 刹那、電光石火の早業で玄関を開ける。
「やっぱ、いるじゃん」
 桃里は居留守を使った舞夏を責めることなく、そう言って笑った。そして、舞夏の手を取るとその上に鍵を乗せた。思わず、そこにある少し長めの鍵を見る。
「これ……」
「隣の部屋の鍵。預かってくれないかな」
「え?」
 流石に玄関先でする話ではない。中に入ってもらうよう誘った。

「どうして、そんな隅っこに座るんですか」
 桃里は南の窓際、押し入れに背を預け胡坐をかいている。
「最初に畳半畳って場所決めたら、結構居心地がいい」
 何それ、と笑ったものの、小さな足折れテーブルを彼のところまで持っていって、お茶を出した。
「居酒屋のバイトが六時からなので、五時半には出ます」
 最初にその確認をして、改めてテーブルに鍵を置いた。

「隣、空家じゃないんですか」
「違うよ。ここは誰にも貸さない」
 それを聞いて思い出したことがあった。
「あの人、このアパートに空き部屋ないかって聞いてました」
「誰が」
「あの、水野操って人」
「お前、どうしてその名前……」
 あ、そっか。
 桃里には、彼女に会ったことを言ってなかった。
「舞夏ちゃん。でっきるだけ、詳しく話を聞かせてもらおうか」
 あちゃ〜 これじゃバイトに行けなくなっちゃうよ。

「と言いたいところだけど、時間ないね。今度ゆっくり聞くよ」
「お店に来たんです。穂坂さんが此処に隠れてた日に」
「あの女がか」
 肯定の意思で頷いた。
「もしかして、このアパートの大家が誰かって聞いたの」
「はい」
「そっか」
 それで自分とは距離を置きたいと思ったんだね、と言われてしまう。思わず、違うと叫んでいた。

「私は、大家さんが穂坂さんだって聞いてよかったって思ったくらいです。でも……」
 そこで、口籠った。
「でも?」
 そこで初めて桃里の瞳を見た。
 まだ話もしていない頃から見ていた。綺麗なお兄さんって勝手に呼んでしまうくらい綺麗って思っていた。その人が今、舞夏の部屋にいて話してる。
 これって凄いことだよね。

「穂坂さんと遊びに行くって言ったんです、あの人。たぶん嫉妬と羨望かな」
 桃里は少し驚いた顔をして、視線を外された。
「気にしないで下さいね。私は大人ですが、大人の人から見ればまだ子供です。学校の先生に憧れるとか、そんな感じです」
 言いながら、鍵を桃里の方へ押しやる。
「だからこの鍵は私ではなく、本命って人に預ける方がいいと思います」
 桃里が顔を上げた。
「やっぱり、今度ゆっくり話そう。鍵は預けておくから、時々空気の入れ替えしてくれると助かる」
「だから、そういうのは本命の人に」
「俺の本命って、どこにいるっていうの」

 !

 そう言われると、何処にいるのだろう。
「ほら、買い物行くよ。バイトに遅刻する」
 時計を見ると、五時をとっくに過ぎている。
 あれ、でもどうして買い物に行くって知ってるんだろう。そんなことを思いつつも、早くと急かされ部屋を出る。
 とりあえず、バイトしているスーパーに行って必要なものをカゴに入れていると、隣ではあれこれ手に取りながら同じように商品をカゴに入れる桃里がいる。
 何だか似合わない。でも楽しそうだ。
「荷物持って帰ってやるよ。そのまま居酒屋行ったら」
 半月に一度の大量購入。それは無理だろうと思ったものの、鍵と言われ出してしまった。
「大家さんなんだから、持ってるんじゃないの」
「マスターキーはセキュリティ会社が管理してるよ」
 成程。
 会計を済ませスーパーの外に出てくると、何処からともなく金木犀の香りが漂ってきた。

「秋だね」
 桃里がそんな風流なことを言う。舞夏も頷きながら、暫しその香りを楽しんだ…。
 そして合計四袋にもなった荷物を抱える桃里を残し、居酒屋のバイトへ向かうことにした。
 歩きながら、今夜も逢えるんだと浮き立つ気持ちを抑えられそうになく、スキップでもしそうな自分に驚いていた――。

NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 9月分小題【秋の気配】
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著作:紫草

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