『Night』


 日没に、辺りが染まる。
 夕暮れが冷気を運ぶ。

 仕事を失った。孤独に苛まれる自分を素通りするほどの美しさは自然の作り出す幻のようで、月の出る間の夕闇が迫ってくる。
 人の愚かさを、嘲笑うかのように自然は聳える。その日の夕闇は、これまで見たどの場面の夕闇よりも偉大に見えた。

 大きな会社ならば、いきなりクビと言われても結果的に解雇は不可能だ。否、その前に社長に直訴のようなこともできないだろう。
 しかし個人の会社は違う。社長に直接話を聞いてもらえる。社員一人一人が家族のような近さにいる。守られながら、守っているような感覚はそれぞれが愛社精神に溢れていたといえる。居場所はここにしかないと、そう思いながら働いた。
 住み込み始めて十年。今さら何処に行けばいいのか、見当もつかない――。

 会社の為と思って動いたことが損失を齎した。勿論、それだけでクビになったわけではない。自分の力だけで何とかしようと悪あがきした結果がこれだ。
 社長は悪い人ではない。むしろ他人に甘すぎるくらいで、いつも奥さんから貧乏暇なしの仕事ばかりだと言われているような人だ。
 その人が行き場のなかった自分を拾ってくれた。あれは十六の夏だった。

 デスクワーク中心の父親はどう見てもひ弱に思え、中学になる頃には背丈も体格も自分の方が上回っていた。だから暴力を振るおうと思ったわけじゃない。ただ無性に我慢ならない瞬間だった。口うるさい小言は、痛いところを突かれているからこそ腹が立つのだ。
 よく、キレるという表現をして子供たちを一括りにすると反発していたが、今思えば確かにキレたのだと思う。ただ自分のなかで何が予想外かといえば、弱そうに見えて見下していた父親に逆に殴られたことだろう。
 頭にきた。そんな感情のままに家を飛び出し、街を彷徨った。

 あのまま社長に見つけてもらえなければ、とっくに人生踏み外していただろう。一人前に親に楯突いて家出したところで何もできなかった。男のくせに、否、男だからこそ何もできないということに親元を離れて初めて気付かされた。どんなに反抗していようが、高校中退の身分では親の後ろ盾がなければバイトもろくにできなかった。
 社長は、いろいろな子供の面倒を見ていた。
 学校に行けなくなった子供や、家庭を捨ててきたという男もいた。子供たちの親にはこっそりと連絡をとり、住み込みで働かせてくれた。その気のあるものは自分の給料がある程度たまったところで学校にも行かせてくれた。
『何でも屋』は、正しく何でも引き受ける会社だった。

 最近では大手のハウスキーピング代行の会社も増え、顧客横取り合戦の様相を呈してきていた。こちらは呼ばれたらいつでもどうぞ、という二十四時間態勢だけが売りのような宣伝だ。だからこそビルの清掃に食い込めないかと画策してみただけだ。ただし、頭の悪い自分は口約束が無効ということを知らなかった。
 契約するという口車に乗り接待を続け、挙げ句別の会社に契約は取られる。

 手元には借金だけが残った。
 従業員への見せしめに自分を解雇してくれと進言した。もう他にできることがなかった――。

 野宿するにはそろそろ寒いか。
 無一文というのは家出した時よりも酷い状態だ。ただ大人になった分、犯罪をしてまで何とかするという気はなかった。
 ともかく日銭を稼ぐ算段をつけないといけないが、今夜はこの夕闇のなかに一晩を過ごしてもいいかと思える。

 いつも子供たちの声が響く公園も、この時間では閑散としている。設置してあるベンチに横になると、星が瞬いているのが見えた。
 雨じゃなくてよかったな。
 ふと口元に笑みが浮かんだ。

 間もなく月が見えるだろうか。
 今宵の月はどの辺りに見えるのだろう。
 そんな意識のなか微睡み、誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。

 そこには懐かしい顔が在った。
 母だった。
 泣いているのだろうか。ベンチに起き上がると、どうしたのかと問いかけた。
「社長さんから電話をもらって、たぶんここにいるだろうからって。きっと何処にも行くところがないから迎えに行って欲しいと言われたの」
 相変わらずお節介な社長だ。
「俺が帰ったら拙いでしょ。大丈夫、何とかなるから」
 そう言っても母は服の裾を離さない。
「お父さんも待ってるから。だから帰ろう」
 嘘だと思った。よく似た父子だから、きっと許すなんてできない。口には出さずにそう思った。
「お父さんね。社長さんに会って変わったのよ。貴男のことも最初はすぐ連れ戻すって言ってたけれど、仕事してる姿を見てやめたんですって。その代わり、次に何かあったら今度は自分が助けてやらなきゃって」
 親はいつまで経っても親なのだ、と母は言う。

 あの親父が待ってる? 殴り掛かろうとした自分を許せると?
 信じられない。
「親の心、子知らずっていうでしょ。あれはお互い様って意味もあると思うわ」
 子には親の心は分からず、親には子の本心は届かない。でも…
「社長さんに教えてもらったんでしょ。話さなければ何も分かり合えないって。お父さんも同じように叱られたのよ」

 夕闇はいつしか漆黒の夜陰に包まれている。
 公園の街灯だけで見る母を老いたと思った。ならば、父はもっと老いたのだろうか。
 その時、公園の外から名を呼ばれた。もう十年聞いていなかったにもかかわらず、すぐに父の声だと分かる。
「一緒に帰ろう……」

 闇は煩わしいもの全てを隠してくれるようだ。
 これまでの嫌なことも、何もかも。
「帰ってきたなら、それでいい」
 そんな小さな呟きが、闇に紛れるように聞こえてきた――。
【了】

著作:紫草

NicottoTown サークル「今週のお題・別館」より 9/30【夕闇】

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