『言葉』1

 五月に入った途端、夏がやってきたようだ。
 今日の日差しは暑い、そして鬱陶しい。
「いいか。それは漫画だ。作り物だ。そんな作り物の男を、本物の男に求めるな」
 そう言い放って彼女、佐方緑の腕から逃れる。
 まだエアコンつけてないし、いくら恋人でも少し離れて欲しいと思うくらいには、くっ付いていた。
「いくら部屋が狭いっていったってさ。六畳はあるんだから、少し離れろ」
 そうして立ち上がると、レースのカーテンまでも引いて空を見た。

 いい天気だな。
「散歩しよっか」
 背中を向けたまま言ってみる。たぶん、嫌がるだろうけれど。だいたい先刻からの彼奴の言葉はろくに聞いてない。そろそろ怒りだすかもしれない。ところが。
「いいね。行こう」
 そう言って彼女もまた立ち上がると、羽織ってきた上着を手にしていた。
「じゃ、出掛けよ」

 久しぶりの休みの昼下がり。
 アパートを出て少し歩くと小川があって、その川沿いは並木道になっている。少し前までは桜を愛でる人でごった返していたが、葉桜に変わった今人影はまばらだ。木陰になる場所に割れそうなベンチが一つ、誰が置いたものかと思うものの様々な人が利用している。
 そしてそこに腰を下ろした――。

 学生の間はよかった。毎日会えるという安心感が彼女を焦らせることもなかった。昔とは違う。親を介さなくても、携帯で本人に連絡も取れる。
 しかし春になって、社会人というたった三文字の大きな壁が出現した。

 仕事を理由に約束を破るのは当たり前なのか。自分はよくて、相手がドタキャンをすると怒りを覚えるのは何故なのか。休日を一人で過ごしたいと思うのは何故なのか。
 たった二十数年の人生で、こんなに考えさせられたことはない。要は、結婚したいって話じゃないのか。
 そう言ったら、目の前に数冊の漫画本を積まれた。否、漫画と言ったらとコミックだと言い直されたっけ。
 バカバカしい。漫画は漫画だ。虚構だろ。読むのは自由さ。漫画ばっかり読んでるって責めたことなんかないし。ただ俺は読まないだけだ。
 でも睨む彼奴の前で全巻を読まされた。ご都合主義の、恋愛にもならない恋が描かれていた。

「あの主人公みたいなプロポーズを聞きたかったのか」
 緑の顔は見ないまま、風を感じながら言ってみる。頭上の幹を毛虫が移動しているのが見えた。今、これ教えたらまた怒鳴られそうだ。どうせ自分には情緒がない。
「そうじゃない。何となくっていうのが多すぎるから、だから…」
「泣くなよ」
 涙は女の武器というが、自分には利かない。姉ちゃんの涙が自由自在に出るのを知っているせいだ。それに冷たいって言われてしまうくらい、色恋沙汰には向かない性格をしていた。
「何となくって、何だよ」
 聞いたところで、彼奴は何も答えない。どうして女はここで口籠るんだ。

 何も言葉が続かないまま、風を受ける。
 気持ちいいな――。

 少し肌寒い。
 そう感じて目を開けた。
「あれ、暗い」
 隣を見ると、緑が読んでいた本を閉じようとしていた。
「起きたの」
「今、何時」
「あと十分で六時かな」

 一気に覚醒した。
「ごめん」
 流石に罪悪感が生まれる。何せ入社以来、初めて会う休みだったのに。
「いいよ。帰るね」
 そのまま背中を向けた緑の腕を掴んだ。

「どうして怒らない」
 いつもなら文句言うじゃないか。今なら全面的に俺が悪いって言える。
「休日出勤続いてたでしょ。今日はもういいよ」
 そしてベンチに座ったまま、彼女の背を見送った。

 漫画の中の男みたいに、仕事も完璧にできて恋愛のフォローもできて、その上新入社員なんているわけないだろ。
 新入社員は担当してもらった先輩の言われるままに、仕事を覚えていくだけだ。週末は概ね飲み会。休み返上で勉強会。少なくとも自分の立場で何かを言える筈がない。
 でもGWの後半は休めた。
 だからこそ会う約束をして、待ち合わせ場所を決める前に緑が来ると言ったんだ。

 恋愛か。
 緑とつきあうようになったのは大学三年の夏だから、もう一年半以上になるのか。
 他の奴らのくっついた別れたって噂を聞きながら結局つきあい続けていたわけだ。卒業してから友達の誰にも会ってない。連絡してみようかな。
 部屋に戻って目ぼしい男友達にメールをしてみた。返信があったのは二人、行き慣れた居酒屋に集まった。

「女ってさ。どうして小説や漫画の主人公になりたがるのかね」
 久し振りというのもあって近況報告が続いていたが、酔いが回ってきて、ぽろっと出てしまった。ところが二人とも、この話に乗ってきた。
「男でもプレゼントしまくったり、相手の言いなりってヤツもいるじゃん。俺、そういうの分かんね〜」
 そう言ったのは現在彼女と喧嘩中で今夜の誘いを受けた大嶋。
「いいじゃん。言って欲しいって言葉くらい言ってやれば。金かかんないし」
 そう茶化したのは現在フリーだと言う金城。
「言葉ってそんなに大事か」
「女にはそうらしいよ」
 即答したのは金城だった。

 結局、答えの出ない野郎の恋愛話なんて続く筈もなく、気付けばくだらない話に雪崩れ込みそのまま日付が変わったところでお開きにしようとなった。
 外に出たところで、携帯が鳴ってると教えられる。
「あ、緑だ」
「お前ら、まだつきあってんの」
 大嶋が驚いたように言う。何か今の驚き方、大袈裟すぎないか。
「どうして、そんなこと聞くんだ」
「だって、この前の日曜に男と歩いてるのを見たから。GWに会ってるくらいだから恋人だろうなって」

 軽くボディブローくらった感じ。
 もしかして今日って別れ話だったのか。だからあんなにあっさりと帰っていったんだろうか。ぼんやりしている内に携帯の震えは止まっていた。

「悪い。帰るわ」
 大嶋の言った場面を想像しながら夜道を歩く。
 そっか。漫画の中にも必ず怪しい相手って出てくるな。でも、これは漫画じゃない。現実だ。

 口下手というほどじゃない。
 ただ言葉にするのは何となく恥ずかしいだけ。だからこそ、言わなきゃならない言葉だけはちゃんと伝えるっていうのがモットーだ。
 切り札は最後まで取っておかなきゃ。
 でも、それを使うタイミングを逃してしまうと何の役にも立たない。

 携帯のアドレスから緑の番号を呼び出す。今かけてきたばかりなんだから大丈夫だろう。
 コール音が二度鳴って、繋がった。
「何だった?」
 できるだけ酔っ払いの声にならないように気をつけて。
――家でゆっくり休みたいんじゃなかったの?
「大嶋や金城と飲んでたんだ」
 自分から誘ったとは言わずに。それよりも男と歩いていたという大嶋の言葉が脳裡をよぎる。
「今日、別れ話したかったのか」
 思わず口をついて出た。

 もし本当に別れ話なら、自分はどうするだろう。別れるのか、それとも引き止めるのか。
 一瞬、携帯から意識が遠のいた。

 次にきたのは頬への衝撃だ。驚いて目を瞠ると、目の前に緑の姿があった。
 零れそうな涙と拳を作った右手と、そして震える唇が可愛かった。これが愛かな、と。
「結婚しよ」
 そう言って抱きしめながら、これで振られたらカッコ悪いと思う。
「莫っ迦じゃないの。そんな酔っ払いのプロポーズ、誰が本気だと思うのよ」
 それもそうか。何となく二人で笑いながらただのバカップルに成り果てた。
「で、返事は?」
 彼女は黙ってキスしてきた。あれ、そういえばどうしてコイツはここにいるんだろう……

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著作:紫草

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