『季節外れの幽霊奇譚』

 篠岡麻貴は昔から霊感が強いと言われる。それは第六感と言われるものとは違う。別にお化けが見えるわけでもないし、怯えているわけでもない。
 単純に人の顔色を窺い、敏感に察知し立ちまわる。そんなことは誰でもやっていることだと思っている。そして、これが夏の出来事なら風物詩だなと思って済ませてしまったかもしれない。
 しかし今は冬。
 突然の異性の登場は、麻貴をとても不安にさせた。何故なら、自分はその顔をとてもよく知っていたから。

『私、あなたを知っています』
 このアパートに引っ越してきたと告げたその人に、思わず言ってしまってから後悔した。ただ挨拶だけをすればよかったのだ。どんなに似ていても、その人である筈がない。だって彼はもういない。
『ごめんなさい。何でもありません』
 失礼しましたと言いながら、きっと最後はドアを閉めた後の言葉になっただろう。

 心臓がばくばくする。手が震えている。
 どうしよう。
 まるで彼が、生き返ってきたみたい――。

 麻貴の知るあの顔は四年前に死んだ、自転車と衝突して。
 最初は転んだって思っただけだった。でも所謂、打ちどころが悪かったらしい。
 自転車に乗っていた人はいつの間にかいなくなり、麻貴が救急車を呼んだ。一人暮らしの彼。家族の連絡先など知らなかった。

 何かの映画かドラマであったよね。記憶をなくして戻ってくるって話。しかし残念ながら、それはない。アパートの大家さんが親御さんに連絡し、自分も告別式に参列したじゃないか。
 双子? でもそれもない。告別式にいた御両親が一人っ子だったのにと泣いていたのを憶えている。

 では今の人は誰だろう。

 生活時間がまるで違うらしく、あの挨拶をした日以降彼には会っていない。そういえば余りの驚きに名前を聞きもらしたようで、玄関にもポストにも名前が出ていないので知らないままだ。
 そして、あの顔。

 もう二度と見たくない。見たくないのに、でも見たい。

 人って若いと死が遠い。誰もが明日、死ぬかもなんて思っていないし、どんな事件や事故があっても自分だけは生きていると思っている。
 彼もそうだった。近所のコンビニに強盗が入ったって事件を知っても、犯人が捕まっていないから怖いって言っても、そのことを自分に結びつけることはしない。
 確かに翌日には営業してたよね、事件のあったコンビニ。それは分かる。でも何も深夜に行かなくてもいいじゃん。そんなことを言い続けて歩いていたからかな。
 どうして自転車に気付かなかったんだろう。いきなり繁みから出てきたそれは、気付いた時には距離がなくて、危ないと思う間もなく彼は倒れていた――。

 もう会いませんように。麻貴は引っ越すと決めたから。それまで、お願い。もう少しだけ待って。

 新聞を取っていないから、事件のその後は知らないままだ。犯人は捕まったのか。それともまだなのか。
 逆に会いたい人もいる。彼がぶつかった自転車に乗ってた人。会えたら、きっと分かると思うから。
 そして見つけたら、墓前で謝って欲しい。短い生を終えてしまった彼に、逃げてごめんって言って欲しかった――。

「大家さん」
「おや。細川さん、今日も早いですね」
 小さなアパートだが、大家はこのアパートの部屋に一緒に住んでいる。一階の東の端で、その前だけ庭があった。細川和也はその隣の部屋ということもあり、いろいろと優遇してもらって学生時代から住み続け、もう三年になる。
 最初はボロいアパートだなと思った。でも、よく見ると玄関扉はシリンダー錠がついているし、女の子が一人で住んでもいいように、門に一番近いところに大家さんが住んでいる。防犯カメラもちゃんと作動しているし、今時に合わせたアパート運営をされている。部屋こそ畳だったけれど、住めば昔の良さを残したままリフォームされていることに気付く。
「部屋を引き払うことにしました」
 和也は、庭の手入れをしている大家にそう声をかけ、二階の真ん中にある部屋を見上げた。彼女が住んでいた部屋だ。

「いよいよ、細川さんも引っ越されるんですね」
 大家は雑草を抜く手を休めることなく、背中に寂しさを漂わせながら呟く。怪奇現象が起こると噂され始め、少しずつ住人が離れていった。

 三年前の冬、和也はここに越してきた。彼女が住んでいたアパート。何度も遊びにきて、住みたいと思っても七室しかないアパートはいつも満室で借りられなかった。しかし、それから幽霊が出ると言われ、いつの間にか空室が増えたらしい。自分はその幽霊に会えるものなら会いたいと思ってやってきた。

「祓ってもらったら、きっとまた人が戻ってきますよ」
 和也の言葉に、大家は顔をあげ礼を言う。
「麻貴ちゃんは、自分が死んじゃったことに気付かなかったんだね」
 麻貴の住んでいた部屋を見上げて、誰が悪いわけじゃないよ。若いのに、やりたいことがまだいっぱいあっただろうしね。そんな言葉に、家賃収入がゼロになってしまうことを嘆く姿はない。
「麻貴は、このアパートが大好きでした。だから今も楽しく住んでいるんでしょうね」

 あるTV番組に、幽霊が出るという投稿があったことから、有名な霊能者が訪ねて来た。そして麻貴の霊と話をしたと言う。
 番組の中でも護摩を焚き、念仏のようなものを唱えていたが、若いお嬢さんだから番組とは別に改めてお祓いをしたいと大家に話をしたのだった。そういう話を信じるか否かは別として、麻貴の御両親にもその話をしたら、自分たちも出てくるからその時にやってもらうということになった。
 何でも、篠岡家には時折霊感の強い血が現れるという。不思議な話だと思いながらも、予感や直感というものが抜群に優れていた麻貴を思い出した。

 その霊能者が言うには、彼女は自分と和也の記憶を入れ替えてしまい地縛霊になってしまったらしい。そして和也にぶつかった自転車の男を捜している。
 そう聞かされ、そいつを捜した。彼女が納得するには自転車の男を、つまり強盗の犯人を捕まえるしかないかもしれないと思ったからだ。学生だった頃は暇はあったが、資金も人脈もなかった。でも就職して弁護士と知り合いになった。コンビニ強盗を憶えている人間を紹介され地域に住む刑事だと知って驚いた。彼は非番の日などにいろいろ捜してくれた。
 そして見つけた、あの時、麻貴にぶつかった男を。捜し始めてから三年の歳月が過ぎていた。

 三年前、越してきた日に大家に麻貴の部屋の玄関を開けてもらい、引っ越しの挨拶をした。すっかり片づけられた、誰もいない麻貴の部屋は、幽かに彼女の雰囲気が残っているような感じがした――。
【了】

著作:紫草

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