『戀しや、という想ひ』

「しよっか」
 その後、続けられたキスの言葉に、思い切り目を瞠った。
 そんな私に、彼は同じことを繰り返す。
 そして近付く彼の甘い香りを、顔を逸らすことで避けた。

「駄目?」
「ルージュが」

 それしか言葉が思いつかなかった。理由なんて、ほかにもいっぱいあったのに。

 夕暮れの待ち合わせ場所、有名な往来の場所ですることじゃないとか。
 私たちは、そんな間柄じゃないとか。
 私の方が年上で、勢いなんかで羽目を外すことなんてできないとか。
 君には、きっと彼女がいる…筈とか。

 でも何も出てこなかった。
 常識も正論も、倫理さえも飛んでしまった。

「ルージュが何 取れちゃうってこと?」

 吸い込まれそうな深いダークブラウンの瞳は、私の姿を映してた。
「えっと、君についちゃうよ」
「なら後で、取ってよ」
 そう笑った、彼の瞳は夕暮れの移り変わりを反射して、薄紫にきらりと光る。

 指が…
 彼の掌が首の後ろに廻されて、何だかとても優しかった。心の奥が温かくて、何か大事なことを言わなきゃという気持ちさえ忘れさせてしまう。

 五本の指って一本ずつに血が通い、それぞれが意思を持って存在しているんだなということに、今気付いた。

 一瞬。
 ほんの一瞬、彼の唇が動いた。
 でも何を囁いたのかは、分からなかった。
 刹那、口唇は重なっていたから。

 彼の唇の淵を、添えた人差し指で辿りながら、私は思う。
 瞳を開けた瞬間、彼は跡形もなく消えうせ、私はたった一人で此処に立っているのかもしれないと。

 夜の帳が魅せた幻。
 夢のなかで繰り広げられる、遠い世界の戀物語――。
【終わり】

著作:紫草

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