『人形遣い』その弐

「お前、名は何と云うんだい?」
 孝彌は少女の手を引いて、自宅への道を歩く。

 文明開化だとかの大騒ぎは、一先ず落ち着いたようだ。街は昔を背負うものと、新しく生まれようとするものをはらんでいる。
 自分は、その狭間をのんびりと生きている。
 孝彌は、そう思っていた。

 いつまでたっても自分の名を答えようとしない少女を、孝彌は見た。
 繋ぐ手から、恐怖を抱いているようには感じられない。
 では何だ。言葉を知らないのか。
 しかし自らの名くらい、云えるのではないのか。
 結局、孝彌は少女の名を知らぬまま自宅の門をくぐり、そのままアトリエに連れて行った。

 アトリエとは云っても、母屋に続くはなれである。
 住み込みのばあやが、隣の部屋に寝起きする。
 そこに入ると、置いてあるソファに少女を座らせた。

 初めて、じっくりと少女を観察した。
 漆黒の髪は、汚れきっている。それでも艶やかな色を放つのは何故だろう。冬の風に晒された肌は水分を失いカサついているが、その白さは人形のようだった。
 伸びた爪は欠け折れ、真っ黒になっている。
 春物の着物は、所々擦り切れて、すでに少女には小さくなっていた。

「名は何と云う」
 改めて、孝彌は問うた。
 しかし少女の口は動かない。
「お前、話せないのか」
 すると少女は激しく首を振る。
「なら、話せ。名を云ってみろ」
「・・・」

 少女の唇が微かに動いた。
 しかし何を云ったのか、孝彌の耳には届かない。
「もっと大きな声で云わないと聞こえないよ」
 その言葉に、少女が顔を上げた。

 つぶらな双眸だけは何者にも汚されることなく、そこに在った。
 一つだけを西洋の蒼に染めたその瞳は、一瞬で孝彌を虜にした。

「もう一度、云ってごらん」
「すて」
「す…て?」
 少女は頷く。
 何て親だ。最初から自分の娘を捨てる心算だったのか。

「その名は文字通り、捨ててしまおう。お前は今日から“かのん”だ」
「か・の・ん」
「あゝ。そうだな、花の音と書いて“かのん”だ」
 花という字も、音という字も少女には分からなかった。ただ孝彌の発した“かのん”という響きだけが体に届いた。

 戸籍など、金の力でどうとでもなる時代。孝彌は、遠縁の子として少女を引き取り育てることとなった。少しくらい常識に外れていようと、孝彌のように、すでに社会的地位を持つ者に父は寛容だった。
 そして、その日から少女は姉小路花音として、孝彌と暮らすようになったのだった。

著作:紫草

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