『人形遣い』その六

 この日の天気は快晴、初夏の暑さを感じる気温になっている。
 それでも、お昼を過ぎたあたりから車を寄せる者が現れた。
 姉小路侯爵は、孝之輔と孝哉を連れ一足先に鹿鳴館へ入っており、専ら早出の客の対応に追われた。
 時間を経るごとに増える客の数は、百名近くになろうか。
 多くの客は二人の兄弟を遠巻きにして、噂しあっている。

「本日は、我が姉小路主催の舞踏会へ、ようこそお越し下さいました――」
 午後三時。
 定刻通りに客の前に立った女主静は、そう語り始めた。
 主賓扱いになる誰某や、華族仲間の何某、そして姉小路の家族として花音の披露が行われた。
「あら、あの子。手首に、ほら。ご覧あそばせ」
 小さな声の囁きも集団になれば意味はない。
 殆どの者が静の隣に立つ花音の手首を見ていた。

「花音。こっちにおいで」
 そう云って花音を呼んだのは、孝彌だった。
 花音は孝彌の声に気付くと、静の許を離れていった。

「やっぱり。ほら、あの絵のモデルじゃございませんこと」
 女たちが少しずつ寄り合って、そう噂する。
「絵って、孝彌さんが描かれる絵の方?」
「そうよ。いつも後姿だったり、胸から下しか描いてなかったりで、もしかしたらモデルは御自分じゃないかなんて噂も御座いましたでしょ」
「そうでしたね」
「でも、ほら。手首に、あの痣が」
 そう云って、皆が一斉に花音の左手首を見ようとする。
「残念。三兄弟にエスコートされていて、見えませんわ」
「ただ、あの三兄弟をこうして拝見できるなんて、これはこれで何だか得をしたような気もしますね」
 女たちの声は次第に遠慮を失ってゆく。

 あの痣。
 あの、とは。
 孝彌の描く女性には顔が描かれることはない。
 ただ、いつも、その左の手首には黒揚羽の模様が描かれていた。
 今、目の前に紹介された少女に、その黒揚羽に似た黒痣を見つけた奥方たちは、ここぞとばかりに囁きあう。
 彼女こそが、孝彌の噂のモデルだと。
 そして姉小路に引きとられた少女だったと、今になって初めて知ったのだった。

「社交界に出すということは、誰かの愛人という噂は違うようですわね」
「分かりませんよ。噂を否定するために社交界に出したのかも」
 口元にかざした扇の陰から盗み見るように花音を確認し、下世話な話は続いてゆく…。
「ご覧なさいな。まるで、あの娘の従者のように三兄弟が守っていますわ」
 壁に並べられた西洋造りの椅子の一つに花音が座り、確かに彼女を守るように三人が立つ。
 右手には孝之輔と孝哉が、そして左には孝彌が中央に背を向け花音を見つめているように映った。

 やがて曲が流れ、それぞれ思い思いに散らばると、今度は三兄弟の許へ女たちが群がり始めた。
 この日が社交界デビューだという娘もやってきて、孝哉に一生懸命言葉を掛ける。
「孝彌。僕らは此処を離れよう。花音が晒し者になってしまう」
 孝之輔はそう云うと、多くの女性陣を連れホールの中央へと移動した。
「そうだな。俺は逃げ出したいところだけれど。仕方ない。幾人か、面倒みてやるよ」
「ありがとう、兄さん」
「高くつくぞ、覚えておけよ」
 孝彌のおでこに一指し指を当てると、孝哉も離れていった。

「逃げ出すよ」
 孝彌は花音の耳元で囁いた。
 漸く顔を上げた花音に、ちらちらと眺めていた客たちからどよめきが起こった。
「まぁ、あの目は何でしょう」
 先程までの囁きではない。
 今度は、はっきりと閉じた扇で花音を指し示す。
 そんな声の中、孝彌は花音の手を取ると、その場にいた全ての者を圧倒し出ていった。
「あ〜あ、孝彌のヤツ。これからが大変だ」
 孝哉の呟きが、ざわめきの中に沈んでいった。

著作:紫草

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