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♪カラ〜ン
耳に心地好い、鈴の音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ。Penguin's Cafeへようこそ」
扉を抜けてきた、その初めて見るそのお客様は、姿だけでいえば物静かな大人の女性という感じであった。
お好きな席にどうぞ、と声をかけると、彼女は一番奥の席を目指す。少し大きめの書類が入るくらいのバッグ、席に着くとそこから文庫本を取り出した。
「珈琲をお願いします」
オーダーを取りに行くと、こちらが何かを伝える前にその言葉だけで視線を合わすこともなかった。
ご注文の珈琲を届けた時も、彼女の視線は本から動かなかった。
可愛いブックカバーに覆われた本を時折、持ち替えながらも読み続けている。
そろそろ珈琲が冷め始めてしまうんじゃないだろうか、と思った刹那。彼女はテーブルにあるコーヒーシュガーのポットに手を伸ばす。
相変わらず、視線は本から動いていないようなのに、器用にシュガーをカップに落とした。
もしかしたら猫舌なのかも。
店主である神部は仕事の合間に確認するお客様の様子から、そんな感じを見てとった。
この店も長らく営業を続けてきた。そのせいか、クリスマスイブにイベントがないことは多くの常連さんに知れ渡ってしまった。
だからこそ、というわけではないが今年はオーナーの許可を得て、クリスマスイブにも特別メニューを出そうと考えている。最近は、その試作品に取り掛かっているのだ。
秋めいてきた、この頃。期間限定のモンブランを目当てに多くのお客様が足を運んで下さる。
しかし、この日はどういうわけか。お天気が悪いわけでもないのに、お客様は一人きりだった。
ふと、このお客様にそのお菓子を召し上がって戴こうと思い立った。何故、そんな風に思ったのか。神部自身が不思議に思ったくらい、初めは唐突にも感じた閃きだ。ただ失礼とは思いながら、少し観察してみると分かることがある。
このお客様は一人……、否、独りだ。
虚構の世界の虜になりながら、現身は孤独をまとっていた。美しく大人の女性でありながら、心は純粋な頃のままに生きているのかもしれない。
淹れ直した珈琲と、オーストリアのクリスマスには欠かせないと言われているクグロフを持ってテーブルに出向く。
初めて、お客様の視線が神部を捉えた。
「クリスマス用の試作品を作っております。宜しければ感想をお聞かせ願えませんか」
彼女の瞳がクグロフに向けられる。
「美味しそう……」
それはそれは小さな呟きだった。
まるで、そう。
うちのオーナーの囁きのように――。
そろそろ試作品はどうなったのか、と顔を出す頃だろうか。
それとも、いつものように前日にふらりとやってくる心算だろうか。
一刻、想いはオーナーに在った――。
簡単な説明とアレルギーの確認をして、皿を置く。
「甘いものがお嫌いでなければ、是非どうぞ」
彼女は本を持ったまま、セッティングしたケーキフォークを取る。
「あ。お行儀悪いですね」
ごめんなさい、と言いながら漸く文庫本を脇に置いた。
「いえ、お好きなようにお召し上がり下さい。お帰りの際に、一言戴ければ幸いです」
そう言った後は、彼女が席を立つか、呼ばれるまでそこに近づくことをやめようと考えた。
本場そっくりの形を作ることと、同じ味で作ることは違うと思う。
日本人が好むクリスマスケーキのイメージは壊してはならない。どちらも尊重しながら、新しいお菓子になればいいと思っていた――。
ハロウィンが終わると、街はすぐにクリスマスのイベントに向け動き出す。
世間とは全く異なる時の流れの中で、イヴに思いを馳せ静かに過ごす。こんな夜があってもいい、と神部は一人思うのだった。
【了】