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Penguin's Cafe
『独りなお客様』

 ♪カラ〜ン
 耳に心地の好い、鈴の音が店内に響いた。
『いらっしゃいませ』
 店主の低音が、心地良く耳に届く。
『Penguin’s Cafeへようこそ』

「ご注文は何にいたしましょう」
 そんな店主の声に、ただ珈琲とだけ告げる。

 何も考えることなく足を踏み入れてしまった、小さなお店。
 入り口から想像するに、もっと流行りのCafeかと思ったのに、少し雰囲気が違っていた。
 窓から見える丸い月に向かい、花が生けてあった。
「あの、」
 声をかけると、カウンターの奥にいた店主がやってきてくれた。
「あの、お花はなんですか」
「月見草です。母が育てた花ですが、今日は夜の営業をすることにしましたので生けました。お気に召さぬようなら片付けますが」
 店主が珈琲をテーブルに置きながら、答えてくれる。
「いいえ。このお店にとても合ってる」
 そう言うと、彼は微笑みだけ残して離れていった。

 独りになりたくて、飛び込んだお店だった。
 突然、無性に泣きたくなったから。ううん、泣いてしまったから…
 逢いたい人に逢えないから。
 雁字搦めになってしまった私が、嫌だったから。
 でも結局、そんな言葉などどうでもよかった。ただ泣き続けてしまいそうだったから。
 だから逃げ込んだ。

 何もかも捨てる覚悟は、私にはなかった。
 いつも間違ってしまう分岐点。
 でも、もう失くして困るものはなくなった。

 いつもは忘れている想い。
 それが蘇ってしまった瞬間から、もう逃げられない自分がいる。
 私は深い海の底を歩いているように、ただ時間だけを貪った。

 ふと顔をあげると、まわりのテーブルには誰もいなかった。
 いくら夜の営業をすることになったとは言っても、そろそろ終わりなんじゃないだろうか。
 気になったので、店主の姿を捜してみると、彼はカウンターの中を忙しなく動き回っている。
 私は伝票を手にすると、レジに向かった――。

「私が席を立つまで、待っていて下さったんですか」
 彼は、違いますよと言ったが、その言葉の裏側に「その通り」という意味を察知した。何て良い人なんだろう。今もまだ、こんな人がいるんだと少しだけ嬉しくなる。
「有難うございました。お蔭で気持ちの整理がつきました」
「また、いつでもお越し下さい。午後七時までに入店いただければ、何時まで居てもらっても自由ですから」
 それじゃ商売にならないと笑ったが、彼の瞳の奥は意外と真実かもしれないと思わせた。
 出先での、もう二度と入ることのないお店。ただ本当に好いお店だった。
「ご馳走様でした。美味しい珈琲でした」
 彼の、ありきたりではない言葉に、暖かい温度を感じ店を辞す。

 あんなにどん底だと思った気持ちが、浄化されたように軽くなっていた。
 見上げた空は、望月に近い明るい月に照らされている――。
【了】

著作:紫草

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