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Penguin's Cafe
『闇夜のお客様』

 ♪カラ〜ン
 耳に心地好い、鈴の音が店内に響いた。

「もう終わりかな」
 入り口の扉を半分開いた状態で、聞いてみる。
「いいですよ。どうぞ、お入り下さい」
 ライトを落とした薄暗い店内にあって、店主の周りだけが明るく見えた。


「無性に甘いものが食べたくなっちゃってさ。そうしたら、ガラスケースの中のケーキが見えたものだから」
 そう言って、小さなケーキを指差した。

 甘いマスクと柔らかな物腰をした店主が、手際よくケーキを皿に盛り赤いシロップをかけている。
「どうぞ」
 と言って運ばれたのはケーキだけではなく、ブラッディ・マリーのような赤い液体をグラスに入れたものも置かれた。
「お酒は飲めますか」
 うわばみだけど、と言うと笑われたが。
「では申し訳ありませんが、少しつきあって下さい。最近、またカクテルを作るようになったんですが感覚がつかめなくて。感想を聞いても宜しいですか」
「こういう役得なら喜んで引き受けるさ」

 初めて会った気がしない男だ。
 客商売には持って来いだな、なんて考えながらグラスを傾ける。
「美味い」
 頭で反応するよりも先に、言葉が出ていた。
「これ、ブラッディ・マリーだろ」
「はい」
「ジンはあるのか」
「ありますよ」
「ブラッディ・サムを作ってくれないか。どちらかというと、ウォッカよりもジンの方が好きなんだ」
 かしこまりました、と言って店主が下がる。

 いい音がする。
 きっと以前は、腕の立つバーテンダーだったんじゃないかと思わせた。
「マスター。君、名前は?」
「神部です」
「神部君。君は、どうして喫茶店のマスターなんかをしてるんだ?」
 立ち入ったことを聞くな、と責められるだろうか。一瞬、よぎった不安も簡単に払拭された。
「両親と妹を引き取ることになったので、夜の世界では無理でした」
 再びテーブルに戻ってグラスを置きながら、あっさりと答える。それを口にするのに、勇気が必要でない筈ないのに。
「神部君って、まだ若いだろ。どうして両親揃って引き取るんだ」
「どちらも現代病とも言うべき病気に罹ってしまいました。妹だけでは、とても看ていけなくて、次はその妹までが心の病と言われてしまって途方に暮れました」
 そう言って、彼は微笑んだ。
 どんな葛藤が、この男にあったんだろう。
 でも今は全てを乗り越えた、高みに居るのだということが判る。このカクテルの味が、それを如実に物語っている。
「美味いよ。このブラッディ・サムも、さっき飲んだブラッディ・マリーも。俺、また飲みにきてもいいかな。夜になっちゃうけれど。ちゃんと金は払うからさ」
 その時、照れたように彼がはにかんで頬に朱が差した。
 綺麗な男だと、ふと思った。

 結局、その後、週に二度は足を運ぶ常連客になった。連絡を入れてさえおけば、灯りを消しても俺だけを待っていてくれる。何だか、都会に見つけた隠れ家のようで思わず童心に返る。
 きっと昼間見る神部の顔は、また違って見えるんだろうな…
 その顔を見てみたいと思うし、また見たくないとも思う。ケーキが取り持った、不思議な男との出会いとなった。
【了】

著作:紫草

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