その二へ

『蛇の目 その一』

 雨の中、母と連れ立って歩いていた。
 すると突然、その母が傘から腕をはみ出させ指をさす。
 大粒の雨は容赦なく母の腕を濡らし、私は慌ててその腕の指す方へ視線を移した。

 そこに見たのは二つ上の兄の姿だった――
 母は、その姿を息を呑むように見つめ続けた。すぐには信じがたい兄の姿。
 しかし、紛れもなく兄の姿…のように見えた。
 彼は、最近では珍しい蛇の目傘を差し、肌寒い今日の雨に半袖のTシャツとスラックスという出で立ちだった。

「お母さん。人違いだよ。失礼になるから指さすのはやめようね」
 その言葉を聞いても、母の視線は戻ってこない。
 当然か…
 何年も行き方知れずだった兄が、否、兄そっくりの人が目の前に現れたのだから。
 でも兄である筈がなかった。
 私は、私だけは知っていた。兄が、すでにこの世の人ではなくなっていることを。
「お母さん、帰ろうね」

 兄が失踪したのは七年前、高校三年の初夏のこと。受験勉強のために通っていた予備校の帰り、忽然とその姿を消した。
 父はいなかった。元々体の丈夫でなかった母は兄の失踪後、心を病んだ。そして認知症との診断。進行は早かった。
 私は高校を中退し、夜間のお弁当屋さんで働き昼間は母の面倒を看る。繰り返す“生きる”という作業。
 友人たちが遊びや大学、そして結婚と生活を変えてゆくなか、私だけは止まった時計のなかにいた。
 そして届いた兄の死の知らせ。
 何故だろう、兄は海外の辺境地で発見された。持っていた予備校の証明書と高校の生徒手帳を身につけた遺体だった。

 だからどんなに似ていても、今目の前に立つこの人が兄でないことは分かっている。
 しかし母の記憶の最後に残った兄の顔が、母の足を止めてしまったのだと思う。正直、途方に暮れた、とそう思った時だった。
「ただいま、お母さん」
 彼は、はっきりとそう言った。母に向かって。
 母は持っていた傘を放り投げ、男に向かって駆けていった、否、気持ちだけは。
 一歩一歩、杖を突き、男の方へと歩き出す。
 すると男の方から、駆けてきてくれた。
 目の前の光景は、まるで三文小説のドラマを見ているような感じだった。大粒の涙は滑稽にさえ映った。
 母を呼んだその声は、やはり兄のものではない。そのことにも気付かないのか、と私は別の意味で悲しくなった。
 男は、私たちと一緒に家へとやってきた。
 帰ってきたと信じる母は、何の躊躇もなく招き入れようとする。
 しかし、この男は別人なのだ。
 私は、家に上がろうとする男に話があると引き止めた。母は怒り出し、私を殴り蹴り飛ばす。いつものことだ、気に入らないことがあると暴れ出すのは。
 ただ今日は男が母を止め、私に対し囁いた。
「後で話す」
 と。

 結局、母は一週間もの時を私に与えてはくれなかった。
 私は母の面倒を一切看ることなく、仕事にだけ行けばよかった。
 もうなす術がないのだ。どうにでもなれ、と日頃の睡眠不足を一気に解消しようとひたすらベッドで横になっていた。

 そして男が漸く母から解放されて、私のもとにやってきたのは、あの雨の日から一週間後の午後だった――
「悪かったね、勝手に入りこんで」
 男の言葉は、こんな感じで始まった。まるで以前からの知り合いのような気安さを含む声音、そして表情。
 それにしても、この男は、どうしてこんなに兄に似ているのだろう。
「何でも答えるよ。どんなに時間がかかってもいい。順番通りでなくてもいい。聞きたいことを片っ端から言ってみて」
 瞬時。私は、その男の言葉に母との不思議な共通点を見たような気がした。
「じゃ、貴男は何を知っているの?」
「朋樹が死んでること」
 男は間髪いれず、即答した。
「兄が死んでいることを知っていて、どうしてこんなことするの?」
「罪滅ぼし…かな」
 罪? 何の罪?
「朋樹が死んだのは、貴男のせいという意味?」
 男は黙って頷き、そして吐息のような声で囁いた。
「たぶん、そうなる」
 この男の言葉は、どうしてこんなに心に沁み込んでくるのだろう。いくら顔が似ているといっても、兄とは別人だということは分かっているのに…
 何より、一番聞きたくない残酷なことを聞かされているのに…
「俺の名は大滝朋哉。朋樹が生きていたら同じ年だよ」

 その男は“大滝朋哉”と名乗った。
 どこかで聞いたことがある、と思ったのも束の間、あの有名な資産家の家の息子だと気付いた。確か明治の頃ホテルを作って成功し、今では老舗と呼ばれる旅館も幾つか持っている。
 その家の跡取り息子と何故兄に接点があるというのだ。
 もともと信じられない出会いではあった。
 時代錯誤の蛇の目傘を差し、兄とそっくりの顔した男なんてドラマだったらチャンネルを変えてやるところだ。
 しかしチャンネルを変えるわけにはいかず、部屋から追い出すことも出来ずに、私は彼の言葉を待った。
 そして今度こそ、信じられない話を聞かされることになったのだった――。

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著作:紫草

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