その一へ

『蛇の目 その二』

 今から二十五年前。麻美さん、つまり君のお母さんは出産を間近に控えていた。場所は都内某大学病院。高年齢の妊娠でもあり、医師から安静にという配慮から早めの入院を勧められた。
 お父さんのことは憶えているかい?
 彼は、父の会社の社員だった。ただの社員じゃないな。とても優秀で、父が君のお母さんから奪ってしまった程の逸材だった。
 その彼が医師から出産は危険だと聞かされたのは、入院して三日目のことだったらしい。
 そこで帝王切開の手術を決断することになった。
 ここまでは、誰にでも起こりうることで問題でもなんでもない。
 ただ、そこで父は君のお父さんにある相談を持ちかけた。
 俺と朋樹の運命を分けた、謀(はかりごと)だった。

 お母さんは何も知らないよ。
 ただ、俺は調べた。
 自分のことを。
 そして、行き着いた朋樹のところまで。
「何を調べたの?」
 俺は母とは血液型が違う。無知な母は気付かないまま逝ったけれど、O型の母からAB型の俺は生まれない。だから本当の母を捜したんだ。
「それが、どうして朋樹の失踪と関係が出てくるの?」

 ――俺の母と君たちの母は同じだと告げた。

!?

 予備校が同じになったのは偶然だった。
 でも、これだけ似ているんだ。誰だって気付く。
 勿論、彼奴は知らないんだから他人の空似だと笑っていたが、俺は違う。
 コイツの母親が俺にとっても母親だと思った。そして調べた。朋樹がいつ、どこで生まれたのか。そして確信した。俺達が双子だったって。
「本当なの?」
 ああ。
 彼奴は、俺と間違われて誘拐されたんだ…

 すべてを朋樹に話したのは、高校三年に進級した頃だった。
 どちらが兄とかではなく兄弟だということで意気投合した。誰かを不幸にするつもりはない。たんに他人の空似で押し通すつもりだったんだ。
 それは夏期講習の初日だった。
 約束していた時間に俺は行けなかった。
 母が…死んだんだ。
 それが全ての始まりで、そして終わりだった。

 朋樹が行方不明になっていると知ったのは、母の葬式や片付けが済んだ後、一ヶ月も過ぎてからだった。
 父を問い詰めた。
 そうしたら、朋哉を誘拐したという電話があったと…
 朋樹が間違われたと、すぐに分かった。なのに父は警察にも通報せず、母のことがあったとはいえ許されることではなかった。
 捜したよ、必死になって。
 でも誰も手伝ってくれない。警察に行っても高校生では相手にしてもらえなかった。
 先週、ニュースで知った。朋樹の遺体が見つかったこと。

「この前、貴男に会った日が朋樹のいなくなった日。死亡日時が限定できないから、あの日を死んだ日にしたの。母は兄のいた頃に時を止めて、心を閉ざしてしまった。ただ、お墓参りだけはしてあげたくて連れて行ったの」
 朝霞が泣きながら、たんたんと話すのを黙って見ていた。
 ごめん。
 ずっと見てきたのに、声をかけることができなかった。
 でも、これ以上、お前が苦労をするのを見ていられない。

「どうして貴男が貰われていったの?」
 貰われたんじゃない。盗んだんだ。君のお父さんを説得できないと悟った父は、とっとと届けを出した。
「盗んだ…」
 そう。君のお母さんには双子だということを伏せて、医者や看護師を黙らせて。実子として出された出生届けは問題なく受理され、そして大滝財閥の跡取りを作り上げたんだ。
「泣いてるの?」
 朝霞がそう言って、俺の頬を撫でる。
 初めて知る人の温もりに、改めて涙がこぼれた。
「朋樹は死んじゃった。でも、私にはもう一人兄がいたのよね。一人ぼっちじゃないよね」
 ああ。
 これからは、ずっと一緒だ。
「それは駄目よ。跡取りなんでしょ」
 親父の愛人に子供ができたってさ。もともと俺は赤の他人だし、出て行けって。
 でも気が楽になった。
 お母さんって、いいもんだよな。
 これからは三人で暮らそ。で、朝霞は好きな男見つけて嫁に行け。後は俺が面倒見るから。今まで、何もできなかったから罪滅ぼしだよ。
「お父さんが生きてたら、ぶっ飛ばしてやるとこだ」
 思わず、笑った。
 そういうとこ、朋樹にそっくり。
 でもお父さんを責めちゃ可哀想だよ。あの人は一人で朋樹を捜しにいって、そして命を落としたんだから。
「そうだったの。会社の人たち、何も教えてくれなかったから…」
 大粒の涙と一緒に、嫌なことは全部洗い流してしまおう。
 それから笑って。
 朝霞の笑う顔、朋樹が大好きだっていつも言ってた。
 俺も好きだよ、朝霞の片笑窪の笑い顔。
「朋哉… お兄ちゃん、どうもありがとう」
 俺は思わず、朝霞を抱きしめた。
 外に響く雨だれと胸に伝う熱い涙がシャツを通し感じとれた。朝霞のこれまでの辛さを全部忘れさせてやりたかった。
 梅雨の雨。
 あの日から降り続く雨の音と匂いは、朋樹の最後の姿と重なる。
 彼奴の好きだった蛇の目の傘を、お母さんだけは憶えていた。あの傘はお母さんの嫁入り道具だったんだから。
 あの蛇の目は待ち合わせた喫茶店のマスターが、大切にとっておいてくれたよ。

 愛おしいという想いは、長く妹として見守ってきたこともあり心から湧き上がった。
 それが危険な想いだと知るには、もう暫く時が必要になることに俺は気付いていなかった――。
【了】 (テーマ:雨)

著作:紫草


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