続編
『梔子』

 河野遼平が、この世を去ったのは齢(よわい)五十五という若さだった。
 現役のカメラマンとして各地を廻り、最期の時もカメラを抱えたままだった。細い路地裏の舗装されていない道で、塀に背を預け息絶えているところを通行人によって発見された。明けきらぬ梅雨の晴れ間の昼下がり、死因は不明とされた。

 彼の死後、極秘にされていた既婚が公表され、モデルであり女優である白雪椿が細君であるとも付け加えられた。
 その白雪が、河野の三回忌を前に、
「これが最后の写真集になる」
 とした上で、彼女自身の監修による遼平の最后の写真集が発行された。

 それは頁数二十にも満たない、小さな小さな写真集だった。
 タイトルは『恋心』
 人物を撮ることが殆んどなかった遼平にとって、全ての頁が人物で埋められたそれは、希少価値の高い本となった。

 表紙裏には細君である、白雪の言葉が添えられている。
 命をかけて遼平のカメラの前に立った親友池端眞子への尊敬と、永遠の想いを自分に分けてくれた遼平への感謝と、そして来世でも三人で友情を育もうとある。
 青春の全てと、愛情の全てが詰まった写真集である。そして、この写真集の刊行を最后に白雪椿は芸能界を引退した――。

「母さん。引退して暇になったんだろ。旅行でもしてきたら!?」
 遼平と聖恵の間には、三人の息子がある。その末っ子でもある河野俊平が言った。
「邪魔かしら、私」
 そんなこと言ってないだろ、と呟くものの、優しい俊平ははっきりとは言ってこない。
「大丈夫よ。好きな時に好きな所へ行ってもいい身分になったの。私は、これから自由な未亡人を満喫するとするわ」
「母さんのその前向きなとこ、俺好きだよ」
「まぁ、俊平ってマザコンだったのね。知らなかったわ」
 俊平は高校三年になった。上の二人と違い、まだまだ父親が必要だったと聖恵は思う。それでも二人の兄と義姉たちに可愛いがられ、淋しいなりに救いになっているとも感じていた。

 三回忌に集まった子供たちとその家族に囲まれて、聖恵は幸せだと思った。
 大好きだった遼平に、大好きだった眞子。
 死んでいった眞子の代わりでもいいからと、遼平を口説いた時も「一番の愛はやれない」とはっきり言われた。
 なのに…

 長男の眞聡が、預けられていた遺言書の入った箱を持ってきた。彼は父親と同じ写真を生業としている。
 そこには、何万枚という聖恵の写真が一緒に入っていた。
 そして、最后まで黙っていくかもしれないから、残しておくと書いたメモが入っていた。
『いつのまにか、一番になった聖恵へ』
 という書き出しから始まる遺言書は、眞聡が言うにはラブレターだねと。
 だから自殺かもしれないと言われても、家族は絶対違うと思った。
 真実は分からない。
 でも、これから生きてゆく人間にとっての事実が真実だと聖恵は思う。だからこそ子供たちにとって、父親は現役のカメラマンとしての不慮の事故で命を落としたのだと決めた。

 聖恵の、線香の匂いに包まれた喪服姿。
 今、父親に代わり、眞聡がその姿をフィルムに納める。いつか、父の許へ旅立つ母が、父に楽しい話をできるようにと――。

 眞聡が『恋心』を手にする。
 最初の頁には、高校生の時の聖恵の写真。この写真が原点だと父親から聞いたことがある。次に真っ白な一頁を挿み、子供の頃の兄弟たちが次々と現れる。半分を過ぎると、女優の白雪椿と母親の顔をした河野聖恵の写真が交差するようにある。
 そして最后の頁には、染井吉野の桜と眞子さん。彼女の名の一字を貰った眞聡にとって彼女は特別な人だ。
 その彼女の写真。医者に無理を言って病院を抜け出した十分間に、たった一枚だけシャッターを切ったという写真。
 顎のラインしか見えないけれど、遼平の気持ちが乗り移ったような素敵な一枚だ。
「これをラストにするんだからな」
 眞聡が苦笑いして、母親を見る。そこにはみんなと談笑する、優しい顔の母がいる。

 父の最初の写真展に、眞子さんの写真と一緒に出かけたと言った母。
 岸本さんは、その写真を見てすぐに桜のモデルだと分かったという。
 そして母は少しずつ、眞子さんの魂を宿しながら父を愛していったのだと。

 こんな人だから、親父も愛したんだろう…
 いつの間にか、一番になってしまう穏やかな大人の恋愛だ。
 眞聡は、閉じた写真集を仏壇に供え合掌する。そしてリビングに揃う、みんなの笑い声の中へと戻っていった――。
【了】(テーマ:3部作/続編)

著作:紫草

その1『染井吉野』2へ その3『椿』3へ short-List(theme) あとがき

なつこのはこ/創作のはこ
inserted by FC2 system