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『ささらぐ小川の畔にて』1

 霊山と呼ばれる処が、女人禁制だとされたのは何時頃までだったろう――

 何処から見上げても、山はある。
 俗説に乗るわけではなかったが、眼前に広がる樹海に足を踏み入れると夏だというのに、どこかひんやりとした空気が感じられた。
『ちゃんと引き返すことができるように』
 山に詳しい友人が、いろいろな知恵をつけてくれた。
 が結局、簡単な準備をしただけで山へと入ってしまった。あれ程、山を甘くみるな、と釘を刺されていたのに。
 何故だろう…
(そう、山に呼ばれたような気がして)
 それに帰ることができる運命なら、何をしなくても山は帰り道を示してくれる。そんな気がした。

 死ぬ気になれば何でもできる。
 簡単に人は言う。
 でも底辺に喘ぐ、常の生活に苦しむ人間に救いの手はない。
 見栄っ張りで世間を気にして、なかなか病院へ行ってくれない親。認知症は早くに病院にかかれば、進行を遅らすこともできると聞くのに。
 二代目と言われながらも、小さな町の小料理屋では続けるだけ借金が膨らんでいく。なのに閉店することもできず、銀行からの催促だけが規則的に続いてゆく。
 親の代での必要のない設備投資は、売り上げを確実に吸い上げていった。住所だけが都会の店には、ワインを飲みにくるお客は多くはない。なのにワインセラーだのグラスだのと次々に購入する親の皮算用は、営業の手練手管に踊らされているとしか思えなかった。
 それでも、まだ冬はいい。おでんや鍋といった特有の料理がお客を呼んでくれる。
 しかし夏の営業は年々苦しくなっていった。友人の力を借りて何とか続けてきたけれど、休むことの許されない日々の暮らしに正 直疲れ果てていた。

 道を知らない場所で、道に迷うという言い方は変かもしれない。
 でも何となく道に迷ったな、という思いがした。
(ま、仕方ないか)
 投げ遣りとは違う。ただ、その場で引き返そうという気は起こらなかった。
 再び足を運ぶと、どこからか川の匂いと水の流れる音が聞こえてきた。

 水の音を辿って歩いていると、三メートルほどの滝とそこから流れ出る小川に出くわした。
 鬱蒼としていた森はいつの間にか開けていて、辺りは木洩れ日が射している。
(天女!?)
 その木洩れ日のなか、滝壺のなかにひとりの女が立っている。思わず天女かと思ったくらい綺麗な人だった。昔話じゃあるまいし、そう思いながらも半分冗談じゃないとも思った。
「誰?」
 どうやら、天女じゃなさそうだ。俺に気付くと、すかさず彼女は聞いてきた。それは紛れもなく、日本語だった。
「えっと、迷子」
 俺の答えに、女は少しだけ眉間に皺をよせ、そして笑い出した。

 屈託のない笑い顔は、荒んでいた心の奥底に響いた。
「俺、里中海。君の名前、聞いてもいいかな?」
「ひな」
「ひな!? それが名前…」
「うん」
 彼女の表情は、相変わらず屈託がない。
「名字はないの。名前だけ」
「名字がないって、どうして?」
「おじいちゃんと二人しかいないから、名字はいらないって」

 何だかヤバイ話っぽくないか。
 以前にあったよな、連れ去られて何年も軟禁されてたって事件。
 そんなことを思いながら、此処はどの辺りになるのだろうと見渡した。

 !

「山が…、ない」
「貴男も迷い込んできたのよね。此処は、山の神様に守られた処。きっと貴男には今、此処が必要だったのね」
 女の語る意味不明の言葉にも、不思議と違和感はなかった。
「それは外界には出られないという意味なのかな」
「難しいこと聞くね。でも私は此処から出たことないから、外のことは分からない」
 ひなと名乗った女は、本当にこの世のものではないかもしれない。
 外とは俺たちの暮らす世界、だとしたら此処は何処だろう。

「ひなさんの家は何処」
「ひなでいいよ。あそこ」
 そう言って彼女が指したのは、滝。そのまま歩き出す彼女に付いていくと、奥は本当に家だった。
「凄いな。滝の奥にこんな処があるなんて思わなかった」
「おじいちゃんが作ったの。私は此処でしか生きられないから」
 ひなは滝の奥にある扉を開き、俺を招き入れた。だんだん彼女の言葉に日常を当てはめることが莫迦莫迦しくなってきた。

 今の俺には、この場所が必要で簡単には出られない。よく考えれば、それだけで充分だ。出られないなら野宿でもするとしよう。
 そんな言葉に、ひなは驚いたように言う。家に泊まればいい、と。
「こんな風に迷い込んできた人、どの位いるの」
「さあ、数えたことないから」
「お前、いくつ」
「さあ、数えたことないから」
「年頃の男女が誰の目もない家に二人きり。危機感ないのか」
「なるようにしか、ならないもの」

 驚くことに、ひなは人としての常識ではなく本能で生きていた。
 だから誰かが来たら、受け入れる。たぶん、そういうことなのだろう。
 死を望む者と、生を望む者。その狭間に空間が生まれ、きっと其々に必要な空間へ導かれ歩いてゆくのだろうと。
 俺は何を望んでいるのか、まだ分からない。
 ただ、ひなを見た時に天女だと思ったのなら、神様に遇いたいと思っているのだろうと、ひなは笑った。

「今の俺は生活に疲れてる。人に疲れてる。そういう男を家に上げるのは止めた方がいい」
 そんな言葉、言うつもりなんてなかったのに。ひなを見ていたら思わず自分を止めたくなった。据え膳と言ってしまってはいけないような、天女に見えたのだから。
 入ってきた扉を開け、再び滝へと引き返す。

 相変わらず夏の陽射しをやんわりと受け止め、小川はささらぐ。
 その畔に腰を下ろし、空を見上げた。
 そこにはある筈のない、月と太陽が一対のように昇っていた――。

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著作:紫草

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