此処に迷いこんで、何日が過ぎただろう。
可笑しなもので、時計もなく、TVやラジオといった一方的に流れるだけのものがないと人は太陽と月の支配で暮らすようになる。
少なくとも俺が日にちを必死に覚えていようと思ったのは、最初の三日間だけだった。
川に入り魚を捕らえ、樹に登って木の実を集め、そして畑を作って暮らす。
陽は穏やかに日差しを降り注ぎ、雨は数日置きにスコールのように降る。
雪解けの湧き水は絶えることのないように思えたし、滝の流れも日々少しずつ違った顔をしながら墜ちてゆく。春夏秋冬という季節の流れも、どこか緩やかで今が真夏だということを忘れそうになった。
「海。ご飯できたよ」
「ああ」
威勢をつけ啖呵を切って、ひなの処から飛び出した筈なのに、その日のうちにひなはやってきた。
そして一言だけ…
「寂しい」
と。
人がやってくるのは、たぶん滅多にない。
いったい、お前は幾つだと真顔で聞いたが教えてはくれなかった。ただ本当に寂しいのだということは判った。
この山は神に守られた処だと、ひなは言った。
では神に守られた処に暮らすひなもまた、神に愛された娘だ。時の流れに逆らうような山奥に生き、孤独は常だった。その気持ちを聞く必要はなかった。
ひなの言う祖父は、いつ来るのか分からない。約束のない訪れ。その日を、ただひたすら待つだけのひな。
だからこそ、迷い込む人間はひなにとって最高の友人なのだ。
そんな孤独の中にいても明るいひなの腕を、振り払うことはできなかった。
「二人で寝たら壊れそうなベッドだな」
手を引かれ、結局戻ってきた滝の裏の家にある、木枠のベッドを見て言ってみた。
「壊れたら直せばいい」
ひなの笑い声は微かに震えている。
「悪かった。もう出て行ったりしないから」
言いながら抱き寄せたひなの体もまた、微かに震えていた。
長い黒髪を指で梳く。漆黒とは違う、金色にも見える黒い髪。首筋から指を這わせ、顎を持ち上げ、そして唇を重ねた…
「恐くない?」
聞くと、ひなは静かに微笑んで平気と答えた。その声もまた、微かに震えていたけれど――。
覚悟を決めてしまうと、世捨て人の暮らしも悪くない。
借金に追われることもなく、親の奇声に悩むこともない。
喧嘩を繰り返すこともなく、ひなを愛することに浸っていられた――。
どのくらい経った頃だったろう、ひなの祖父がやってきたのは。
祖父といっても、親父と対して変わらない年に見えた。俺を見ても、たいして驚くこともなく軽く会釈をして家の中へと入ってゆく。
(いつものこと、ということか)
そう胸の中で呟くと、一抹の不安と淋しさが溢れた。
中へ入る勇気がなくて、森へ入って木の実を集めていた。そこへ、ひなの祖父がやってきた。
「随分、集まりましたね」
祖父との会話は、そんな在り来たりの言葉で始まった。
「迷い込んだのは、樹海からですか」
詳しく聞くわけではないようだった。単に黙って頷くと、彼も数回頷いていた。その後も難しい話をする気はないようで、彼の言葉は続いていった。
「ひなを独りにしないで、ずっと一緒にいてくれて有難う。でも、もうすぐそれも終わるでしょう」
!?
彼の予期せぬ言葉に、一瞬言葉を失った。
「どういう意味ですか」
「あの子は神に愛された子です。一度死んで、此処に埋葬する為に連れてきたら息を吹き返した。否、蘇ったと言うべきかな」
死んだ?
「それから五年、もう限界でしょう。幾ら神様に愛されても寿命はある。最期の時に一緒にいてやろうと山へ登ったんです。でも、ここ暫く此処へ来ることは出来なかった。貴男のお蔭ですね」
いつも不思議を身に纏う、ひな。
彼奴の命の灯火は、もう消えかけていたというのか。
「此処は山の神域です。どんな目印をつけても、絶対来られる場所じゃない。山の神が許してくれる時だけ、ひなの許に来られるんです」
「私は山を下ります。どうやら神は、ひなの最期に貴男を選んだようだ。ひなも分かっています。もし許されるなら、あの子の最期の命を看取ってやって下さい」
若い祖父は、涙ながらにそれだけ言うと静かに山を下りて行った。
思考は停まっていた。帰ろうと、ただそれだけを思った。
最初はゆっくりと、それから小走りに、最后は全力疾走に近い状態で家へ戻った。
「ひな」
そこには静かに横たわる、ひなの姿があった。
まだ信じられなかった。さっきまで元気にしていたひなが、もうすぐ死ぬなんて。
でも最初から、不思議な時の刻みだった。そのことは否定しない。
ひなと山の神に選ばれて此処へ来たというのなら、最期まで付き合おう。
「海。有難う。独りにしないでくれて。ずっといてくれて。愛してくれて。本当に有難う」
ひなの言葉は、それが最后になった。それから彼女は眠り続けた。何日も、何ヶ月も、多分一年近く。
それでも、ゆっくりとその時は近づいてきた。ひなに出逢った夏の日と、同じ陽射しが滝を一際輝かせた日。
その日、その時は訪れ彼女は天に召された。
山の神にも、どうにも出来ぬ人の寿命の儚さか。
ひなが逝き、そこを去ろうとしたら彼女の声がしたような気がして振り返った。
すると彼女の枕の下から、紺色の袋が見えている。開くと中には、ひなからの最初で最后の手紙が入っていた。
『海。長い間、引きとめてしまって、ごめんね。
本当は山の神様にお願いしたの。最期に、もう一度だけ我が儘を聞いて下さいって。
最高に、ひな好みのカッコいい男の人と恋がしたいって。
神様は、その願いを叶えてくれた。
だから、もう思い残すことはない。二十五年の生涯に、たった独りのひなの恋人。
自分のお家に戻ったら、愛する女と山の神の懐に居たって伝えてね。
海の時間をくれて有難う。
さよなら。
海へ。
ひなより』
ささらぐ小川の畔、夏の恋。俺の涙は滝壺へと、ひなと山の神の許へと還っていった。
――帰ってみると、驚くことに月日は三年の時を経ていた。
まるで浦島太郎の気分だ。
その上、赤字まみれだった店は売却され、多少なりとも財産と呼べるものが残っていた。
全ては、親友と豪語する大滝尚哉のお蔭だった。
世間体を気にするあまり、母を病院へ連れていくことを毛嫌いしていた父も、尚哉に説得されすっかり別人のようだった。
確かに帰るべき時がきていた、ということだったのか。
尚哉が聞く。
「お前、今まで何処にいたんだよ」
と。
そして俺は、ひなの残した約束通り、あの手紙のままに答えた。
「愛する女と、山の神の懐に――」
【了】(テーマ:夏)