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『染井吉野』1

 自分の手で作った四角い形。
 ファインダーに見立てた、その中に一本の染井吉野がある。
 全B版の写真。
 自分の初の写真展の最奥を飾った、夜桜の一本だった――。

 初めてカメラを手にしたのは、たぶん二歳くらいだったんだろうな。
 河野遼平が、感慨深く古い一眼レフを思い出す。Nikomat FT3は、一番思い出のあるカメラだった。
 小さな頃から、親父の趣味だったカメラ。撮影会や撮影旅行について行っては、一緒に撮らせてもらってた。
 親戚一同からの中学の入学祝いを全部パスするから、高校に入学が決まったら自分だけのカメラが欲しいと、叔父さんたちに直談判にも行った。後で、めちゃくちゃ叱られたけど。
 結局、中学祝いの代わりにと、親父からNikomatを譲って貰った。

 人は、きっと自分のことを幸運な奴だと言うだろう。
 高校でコンテストに入賞。
 バイトで入り込んだ撮影現場に有名な写真家が出入りしていたことで、雑誌社との繋がりが持てた。
 写真学校に進もうとしていたのを、その写真家に止められた。彼は、学校は当たり前の知識ばかりを詰め込み過ぎると言う。そして勉強したいなら、大学に行きながら自分の下でバイトをすればいい、とも。
 結局、彼の仕事の拠点である東京の二流大学に進学し、暇があれば彼のスタジオに顔を出した。
 彼は名を岸本学といい、風景写真を得意とする世界にも少しは名の知れた写真家である。

 二年前。
 二十七歳の遼平に写真集とその写真展の話がきたのは多分、岸本の名前の影響も大きいと思った。
 しかし、この世界。実力だけでは認められない。
 彼とのパイプを持ったのも、実力の内だと開き直り話を受けた。
 それからの岸本は厳しかった。
 それまでは多くのアシスタントの一人という扱いだったものが、急にあれこれとレベルの違う話をする。殆んど徹夜で調べ、翌日また別の課題を出されるという感じだった。
 そんな生活が半年も続き、これじゃ写真を撮っている暇もないと出版社に泣きついたら、それが岸本からの愛弟子を手放す条件だといわれた。
 つまり、彼は自分を育ててくれていた。
 ちょっと顔のいい、今時の若手のカメラマンではなく、実力のある本物の写真家だと認めてもらえるようにと言ってくれたらしい。

 結局、遼平は一年間、殆んどカメラに触れる暇がなかった。
 でも、それが良かった。
 今は昔とは違う。
 デジタル処理で、次から次へとシャッターを切る。要らないものは削除すればいい。
 一枚に対する思いが、フィルムを使っていた頃とは違う。
 それを思い出した。

 高校のカメラ部はモノクロ専門のクラブだった。
 フィルムの現像から焼きまでを学校の部室で行う。
 貧乏な高校生だ。一枚のフィルムも無駄にしないように、構図を考え被写体を見切り、そして覚悟を決めてシャッターを切る。
 その頃の一枚に対する思い。最后の一枚という時は特に緊張した時の、掌に浮かぶ汗。
 日光が味方になったり敵になったり、という撮影日の気候。
 そんな全てを思い出させてくれた一年という時間だった。

 岸本が、もう来なくていいと言った時、正直破門されたのかと思ってうろたえた。
 しかし、そうじゃなかった。
 写真集の枚数など気にせず、全ての写真をフィルムで撮れと言ってくれた。お金の心配はするなとも。
 一年前のことだ。
 流石にその申し出は断わったが、一番奥に飾る一枚だけはフィルムで撮ろうと決めた。
 たった一枚だけの、フィルムで撮る。それが遼平が自分に課した唯一の課題だ。

 特に撮影場所を決めていたわけではない。
 ただ高校の近くにあった桜を撮りたいと思った。
 そう思うと無性に昔のことを思い出す。
 自分の原点ともいえる、あの桜をもう一度撮りたかった。
 出版社へ話をすると、OKが出た。
 遼平は東京での仕事を一区切りし、一ヶ月以上の時間を故郷で過ごすことにした。

 三月半ば。
 遼平は、久し振りに高校の門の前に立った。

 校内に見える桜の木々も、蕾が膨らみ始めているのが見える。
 フェンスに沿って歩いていると、懐かしい顔に会った。
「えっと… 掃除の先生」
 そう声をかける。すると箒で掃き掃除をしていた校務の内藤先生が、手を止め振り返る。
「おっ。河野じゃないか」
 よく憶えていてくれること。
 思わず、笑ってしまう。
「お久し振りです。まだ校務主任さんですか」
「いや。こんなことしてても今は校長なんだ」
 凄いですね〜 と思わず口に出た。
 失礼な奴だな、俺って。

「何でも写真家になったんだってな」
 内藤が校長室に通してくれて、コーヒーを出してくれた。
 そこで遼平は、思いもかけないことを聞く。
 古木になっていた例の桜は、もう花をつけない、と――。

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著作:紫草

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